登録型ウェブ日記リンク集の動乱

2020年5月3日公開

▼目次
■1.序文
■2.1995年 『日記リンクス』の開始
■3.1996年~1998年 津田、ランキングシステムの弊害に苦しめられ。ばうわう、『日記猿人』を興すも人望を失う
 ◆日記リンクス630事件、◆日記猿人812事件
■4.1999年~2004年 『ReadMe!JAPAN』の躍進
■5.2005年~2010年 最後の砦となった『テキスト庵』
■6.2011年 登録型ウェブ日記リンク集の終焉
■7.評論
参考文献

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1.序文

 この文は、「登録型ウェブ日記リンク集サイト」について記した物である。ここでいう登録型ウェブ日記リンク集サイトとは「ウェブ日記のリンク集」且つ「ウェブ日記を持つサイトの管理人が自らリンク集に登録出来る」且つ「更新報告機能を持つ」と定義する。 サイト名を具体的に挙げると『日記リンクス』『日記猿人』『ReadMe!JAPAN』『テキスト庵』である。 登録型ウェブ日記リンク集は、その性質上、コミュニティの中心に位置する重要な存在であった。年月が経ち、ウェブ社会で個人サイトが役割を終えていくにつれ、登録型ウェブ日記リンク集も役割を終えていった。

前段

 1994年、各大学のサーバーがインターネットへ接続されていった。 大学のサーバー内には研究室のページは勿論の事、研究室に在籍する学生個人のページがあった。学生のページでは、その内容が勉学や研究に留まらず、趣味や興味について書いている所もあった。 これが後の「個人サイト」へ繋がっていく。 代表的な物として、 九州工業大学の一瀬大志氏、児玉修一氏、堀江信助氏がストリートの情報を発信した『JapanEdge』、 札幌医科大の学生が札幌ラーメンについて紹介とレビューを書いた『Local Area Medical Network(LAMeN)』、 東北大学の樋口隆司氏がウェブ上にあるソフトウェアを紹介した『秋保窓』、 東北大学の水木敬明氏が作った投票ページ『なんでもランキング』、 山梨大学のHIROSHIGE Takuji氏がリーガルドラッグを体を張って試した『HIROSHIGE Takuji's Home Page』、 千葉大学の寺本秀雄氏の『Pickles Spinn Communications』 埼玉大学の松田浩一氏がまずい食べ物について書いた「駄食倶楽部」とカップラーメンレビュー「カップ天国」の『Koichi Matsuda's Home page』、 埼玉大学の島田繁広氏が'90ハイテクヒッピーを目指した『ShigeP's Home Page』、 埼玉大学の黒田昌利氏が人がやらないことをやるをモットーにコミケの買い物レポートを書いた『Kuroda Masatoshi』 等が挙げられる。

 特に『Kuroda Masatoshi』がこの時点で既に後のテキストサイト的な雰囲気がある事は注目すべき点である。

 民間企業によるインターネット接続サービスが次々と始まったものの、電話回線の定額制サービスはまだなく、一般個人がインターネットへ接続するのはハードルが高かった。 Microsoft Windows 95の発売前であり、そもそもパソコンの使用自体が普通の人にはハードルの高い物であった。 極一部の人を除けば、パソコンと回線を比較的自由に使え自分のページを持てるのは研究室の学生くらいであった。

2.1995年 『日記リンクス』の開始

 1995年、インターネットへ接続する企業のサーバーが増え始め、企業の公式ページが公開されていった。遅れて、インターネット接続サービスのサーバー上に個人サイトが少しづつ作られていった。
 1995年5月14日、ジャンルごとに個人サイトを紹介する個人サイト『NAKATA Personal Home Page Magazine』が開設した。

 1995年5月18日、豊橋技術科学大学河合研究室(河合和久助教授)に所属する修士一年生、津田優氏は自身のサイト『Masaru Tsuda's Home Page』内に個人サイトの日記リンク集「日記なページのリスト」を作った。これは『日記リンクス』と呼ばれた。

 津田氏は「最初は個人のホームページはあまり面白いところがなくて、日本語で読めるページは貴重な存在でした。しかも、毎日更新されるページというのは日記くらいしかないから、個人的に集めていたんです」(*2A)と語っている。 『日記リンクス』の初期は津田氏がサイトを追加していたが、やがて新規登録のページが作成され、サイトを持っている人が自分でリンク集に追加出来るようになった。 あくまで「日記」のリンクページである事から、サイトトップページよりも更新頻度が高い日記ページのURLが登録された(例外有り)。 更新報告機能も実装され、更新時刻順のリストに反映されるようにした。 これにより、『日記リンクス』訪問者は態々自分で各日記に片っ端からアクセスしに行かなくても、更新報告があった物にアクセスすればよくなった。 機能が充実した『日記リンクス』はユーザーから重宝された。

 1995年7月11日、『日記リンクス』はランキング機能を実装した。ランキングページでは登録サイトを"『日記リンクス』からの"アクセス数により順位付けした。

1995/07/11 今日の日記リンクス

こっそりと日記ランキングを始める。
ランキングは理系のギムですので。
水木さんに習ったかいがあったってもの。でも何でもランキングみたいにムチャな事されると困るのであしからず。みんな大人になろう(笑)。

堕落日記(Masaru Tsuda's Home Page)

1995/07/12 今日の日記ランキング

日記ランキング は、hyperdiaryな方々には、だいたい好意的に受け入れられたようだ。 一安心。


■突然解説(23時くらい)
今ベスト10の中には、一位に諸富さんの駄文でポン。二位に酒井さんのすちゃらか日記。五位に若月さんのにっきのこーなー。六位に大森さんのおたく日記とhyperdiary界の主力選手が並んでいる。これは無難なところか。この牙城を崩す選手としてwwwの裏の重鎮本田さんのぶちまけたい本音や、向後さん、大原さんの女子選手があらそっている。本田さん向後さんは日記が書かれ始めると一気に上位にくいこむ可能性あり。共に人気選手だけに上位陣にとって恐怖の存在か。

大森(望)さん、金子さん等のプロ選手は結構下位に沈んでしまっている。 たぶん大森さんリンクが使われているためだろう。早急な対策が望まれたい。 土本強さんの不定期日記はいきなりの12位浮上。この勢いを見守りたい。


■続き(24時くらい)
諸冨さんの 駄文でポン!で、「日記ランキングで一位になってたいへんうれしい」というふうな記述見つける。と書こうと思って日記 リンクス(簡単版)を見ると、何と!こっちもリンクがcgi経由だった。うそをついていたのだった。あわてて直すこと5分で復旧。誰にも気がつかれねばいいが(笑)。

酒井さんの すちゃらか日記では「日記がファンジン化している」と書かれている。あのちからわざで解決したのが評価されたのでしょうかっ!。諸富さんと酒井さんは熾烈なあらそい。

堕落日記(Masaru Tsuda's Home Page)

 このランキング機能によって『日記リンクス』は娯楽性が付与され、只のリンク集からの脱皮に成功。更に重宝される存在となった。

 『日記リンクス』によってサイト同士が繋がり、コミュニティとなった。これは「日記界」と呼ばれた。登録された日記は最終的に600サイト以上(*2B)。 そうなれば後の世で言う所の大手サイト的なものが出てくる。 日記界では下記4つの日記が「四天王」と呼ばれた。

  ・登録番号9番:九州大学・諸星友郎氏の『駄文でポン!』
  ・登録番号11番:室蘭工業大学・酒井伸和氏の『すちゃらか日記』
  ・登録番号36番:早稲田大学・なかむらひろし氏の『きちく系日記』
  ・登録番号38番:河合あみこ氏の『不連続日記事件』

 特に『不連続日記事件』は1日8時間以上をサイトの更新に使っており、管理人の河合あみこ氏は「日記界の女王」と呼ばれた。雑誌の連載も常時2、3本抱える程になった(*2C)。

 「駄食倶楽部」と「カップ天国」の埼玉大学・松田浩一氏『Koichi Matsuda's Home page』は『精進日記』を登録。登録番号は4番。 『なんでもランキング』の埼玉大学・水木敬明氏は『僕の感想』を登録。登録番号は203番。 他には、ウェブ上の日記に「ハイパーダイアリー」と名付けた登録番号5番の早稲田大学・大森英司氏『をたく日記』。 登録番号14番のSF翻訳家・大森望氏『狂乱西葛西日記』と46番の小説家・我孫子武丸氏『ごった日記』は元々活字媒体での露出機会が多かった人達。 登録番号120番の近多泰宏氏『今日の○と×』は津田氏と同じ研究室の仲間であり、検索サイト『yahho』を作っていた。 登録番号287番の東京大学・三ツ矢浩之氏『オフピーク日記』(三ツ矢浩之のホームページ)は人気コンテンツ「誤変換の宴」「エセ倍角の館」によりウェブ初期の面白サイト代表格として記録されるべきもの。 「誤変換の宴」は同じコンセプトを後年『僕の見た秩序』が「ゆかいな誤変換。」として書籍化までさせたが、三ツ矢氏の方が先発である。 登録番号375番の赤尾晃一氏『メディア・ウォッチ日記』。赤尾氏は具体的な活動までは行かなかったものの「日本Web日記学会」を提唱した。 登録番号441番の立花岳志氏『思うこと』。立花氏は後にプロブロガーを名乗った。

 商業サイトも登録しており、登録番号62番の『天声人語』(朝日新聞)、577番の星野仙一公式サイト『HOSHINO★EXPRESS』(NTT)があった。

 無論、コミュニティの中で津田氏が神であるし、実際そう呼ばれていた。 『日記リンクス』の一番若い登録番号は0番であり、それは津田氏の『堕落日記』であった。

 WWW日記界の「神」と崇められる津田優の日記リンクスは、日記者/日記読者の聖地。それまで各地のサイトに孤立して存在していた日記を、「日記なページのリスト」として彼が体系化した瞬間、HyperDiaryが誕生した。そこから日記同士の相互言及や相互リンクのネットワークが生まれ、各日記が網の目状にに相互接続されはじめた。つまり、「はじめに日記リンクスありき。日記リンクスは神なればなり」ってことで、このページを抜きにしてHyperDiaryは語れない。

 日記リンクスに登録されたWWW日記の数は、スタートから一年少々ですでに500を突破、いまも続々と増えつづけている(ちなみに大森の狂乱西葛西日記は登録番号が14番なのでひそかに自慢)。インターネット雑誌には日記ウォッチ常設コラムもあるくらいで、なんかたいへんなことになっているのである。

 登場以来、数々の悲喜劇を演出してきた「人気ランキング」は、日記リンクスからジャンプしたアクセス数を集計するシステム。各日記のURLに直接飛ぶとカウントされないため、いったん津田ページに飛ばしてランキングに一票入れてもどってくる〈日記ランキング投票ボタン〉も一般化。現在は、月間、週間、日間、時間とタイムスパンに応じて四種類のランキングがあり(観測開始以来の累計ランキングが廃止されたのは残念)、努力次第では新設日記がトップをとることも可能。

 一方、熱心な日記ウォッチャーたちが重宝しているのは、各日記の更新状況がひと目でわかる「更新速度ランキング」。もはやすべての日記を読むことは事実上不可能なので、日記リンクスを使って新着日記をチェック、日常的に巡回するお気に入り日記は自分のブックマークやマイページのリンクコーナーに登録しておくってのが一般的かも。

ハイパーダイアリーの聖地にWWWの神髄を見たnozomi Ohmori SF page

 『日記リンクス』の登録サイトリストを見ると、「○○大学の○○(実名)の○○(サイト名)」と登録されているものが多い。 つまり、大学生・大学院生が多く、しかも実名だった。先に書いた通り、インターネット接続を潤沢に行なえる環境が大学や極一部の企業に限られた為である。 大学生・大学院生が大学のサーバーにあるサイトを更新していれば、それは半分は遊びであっても半分は勉学・研究の一部であるともいえるし(当時は)、勉学・研究であれば実名なのは当たり前であった。 河合助教授は「近多君や津田君はマスターの1年ですが、そのくらいの時期はいろいろやってみたほうがいいと思うんです。インターネットをやっているのは勉強しているのか遊んでいるのかわからないという人もいますが、プログラムも書いたりしているようですから、そういったことで技術を磨くのもいいんじゃないかと思います」(*2A)と語っている。 また、大学のサーバーであるからURLは「http://xxxxxxx.ac.jp/yyyy/zzzz」(xxxxxxx大学yyyy研究室zzzz個人フォルダ)となり、何処大学の何研究室の人間かはURLで解ってしまう。匿名でやってもあまり意味がないともいえた。

*2A:「ヤッホー、日記リンクスはここで生まれた 愛知県・豊橋技術科学大学の河合研究室」(iNTERNET magazine 1996年2月号) ⇒バックナンバーアーカイブ有り
*2B日記リンクス簡素リストのミラー
*2C第4回 1995年「越冬」~僕等の情熱は行き場を求めてもがいていた~

 1995年8月22日、NTTは電話番号指定型の電話回線定額制サービス「テレホーダイ」を開始した。23時~翌8時までという使用時間制限はあるものの、インターネット接続に電話代で怯えなくても済むようになった。
 1995年11月23日、「Microsoft Windows 95」が発売された。Windows 3.1から改良され使い易くなったグラフィカル・ユーザー・インターフェース。 OSR2からはインターネット関連の機能が搭載された。
 この二つにより、一般個人がインターネットに接続するハードルはある程度下げられた。1995年は「インターネット元年」と呼ばれた。

 さて、『日記リンクス』に実装されたランキング機能。この機能によって『日記リンクス』は只のリンク集から脱皮に成功したが、人々の心を惑わすきっかけにもなった。 こういう物がある以上、登録サイトはランクを競うようになっていく。 そのランクが日記自体のアクセス数ではなく、”『日記リンクス』からの”アクセス数で決まる。 その為、『日記リンクス』で一日に何度も更新報告をし、更新時刻順リストの上位に表示させ続ける事で、アクセス数を稼ごうとする者が現れた。更には、更新していないにも関わらず更新報告だけを繰り返す者さえ出てきた。
 ランキングには日間ランキング、週間ランキングの他にランキング開始から今までの”累計”ランキングもあった。 時系列的には元々累計のみがあって、日間や週間は後から実装されたもの(1995年9月14日)。 累計ランキングは、累計であるが故に後発参加者が幾ら頑張ってもランキング上位には古参が何時までも居座るという事を意味している。
 『日記リンクス』はあくまで学生である津田氏の個人ページである。それは当たり前な事である。 然し、『日記リンクス』の利用者が増え、存在感が増し、学生ではない一般個人が増えた結果、『日記リンクス』を恰も公共的な物として捉え、仕様変更を要求する利用者が現れ始めた。 「飽くまで学生」という津田氏の立場、「飽くまで学生が作った物」という『日記リンクス』の前提は、その成り立ちを知っている初期参加者には理解されても、 成り立ちを知らない者からは理解され難くなっていった。

 『日記リンクス』は何時の間にか津田氏の個人ページを超えた、もっと大きな何かになっていたのである。

3.1996年~1998年 津田、ランキングシステムの弊害に苦しめられ。ばうわう、『日記猿人』を興すも人望を失う

日記リンクス630事件

 「得票総数ランキングは後から参入した日記にとって不公平だ」「面白い(と自分が思う)日記が上位にないのは、何らかの不正操作の結果である」

 そう主張したのは、日記リンクス登録番号226番『とほほ日記』のばうわう氏であった。サイトの開設日は1995年12月20日。 日記リンクスの参加者としては後発であり、学生ではなく会社員であった。 彼は『日記リンクス』に改革を求め、時には神である津田氏を公然と非難した。 これは『日記リンクス』をあくまでも自分の物とする津田氏にとっては受け入れ難い物であったと考えられる。 これが大きな流れとなって、複数のサイトを巻き込んだ大きな騒動になっていく。
 日記というのは得てして、「自分やその周りの人しか面白くない身内ネタ」になりがちである。そんな日記もばうわう氏は非難した。

 ばうわう氏の行動には賛否両論有った。 津田氏への非難のみならず、ランキング上位者の日記に対し批評や非難を繰り返し行なった。 これは「ウェブ日記批評」や「日記読み日記」といわれた。 そして、その行為は他人から見れば「非難を行なう事でアクセス数を稼いでいる」という事でもあった。 これは後の世で「炎上商法」といわれた手段と根本的には同じであり、ばうわう氏はその手の先駆けといえる。 又、日記の先頭何行かのコメントを差し替えて、更新ランキングに登録する行為は「ランキング乞食」といわれた。 とはいえ、身内ネタを非難する彼だけあって、彼自体はコンテンツ制作能力が有り、彼の文には人を惹きつける力があった。彼には自分を非難したサイトの掲示板に突撃して持論を一方的に展開する、ある種の精神的なタフさ・行動力もあった。 その行動力がよく解るエピソードが金田善裕著 「個人ホームページのカリスマ」に書かれている。 京都の大学生がばうわう氏にブラウザクラッシャー攻撃を仕掛けたのだが、軽率な事にそのブラウザクラッシャーは大学のサーバーに置いていた。 ばうわう氏はこれを座視せず、態々京都の大学まで行き、抗議。結果として学生は大学から処分を受けたのである。

基本的に僕は「とほほ日記」のファンでした。
テレビやマスメディアに対しての鋭敏な情報というのも魅力なのかも
知れませんが、僕はあんまりテレビを見ないのです。

ドラマはここ数年全く見ていません。

それなのになぜ「とほほ日記」が好きだったのかというと、
自らを「大悪人」と名乗り、(当時の津田リンクスの)システムの欠点を
小気味よく付きしかも自らが多重投票していることを堂々と公言し
様々な手段で不法に上位にのし上がってくる新参者達をバッタバッタと
斬り捨てる「桃太郎侍」のようにばうわうさんが見えたのです。

旧体制に一人でカラダを張って立ち向かう流れ者ばうわう、という
イメージがいまだに僕の中に強く残っています。

I think therefore I amNo Second Life

 1996年6月1日、ばうわう氏は『とほほ日記』内に日記リンク集ページを作った。やがて、せんべい氏と池川氏という協力者が現れ、新規登録機能と更新報告機能、投票ボタン押下形式によるランキング機能を実装。登録型ウェブ日記リンク集『日記猿人』となる。


 ばうわう氏の行動は激しさを増した。 津田氏によると日記で個人攻撃を行うだけではなく、「パスワードを不正に操作」「他人の登録データを改変」「常にランキング上位にいる為にアクセスランキングに自分で投票」を繰り返していた。

 1996年6月30日、津田氏はついに強硬手段をとった。ランキング機能を中止し、併せて『とほほ日記』を『日記リンクス』から削除したのである。
 1996年7月2日、津田氏は声明文を出した。そこには『日記リンクス』は公共サービスではないという宣言と、アクセスランキングを中止した理由、そしてばうわう氏への抗議が書かれていた。

前提

日記リンクスは、私が個人的な趣味で集めているポインタ集であって、公共サービスではない。知名度がどうあれ日記リンクスから、直接的な利益を得ているわけではない。 従って何を集め、何を集めないかを判断し選択する権利は当然私にある。自動登録のしくみは私の手間を削減するための付加的なサービスでしかない。

経過説明

さて、これまで日記リンクスは個人の日記の内容には関知せず、自動登録のしくみを公開し、できるだけ大勢の人に参加してもらうという方向でやってきました。 これからも、そのポリシーを変えずにやっていけるものだと信じていました。

しかしばうわう氏の行動は目にあまりました。日記で個人攻撃を行い、他人の登録データを改変し、パスワードを不正に操作する行為を、今まで幾度となく繰り返しました。 そしてアクセスランキングに自分で投票し、常にランキング上位にいる事で自分の日記を注目され続けていました。 アクセスランキング及び日記リンクスがそのような不快きわまりないページのアクセスを増加する助け、となっている状況は、これ以上我慢出来ませんでした。 これはばうわう氏の日記の登録削除およびアクセスランキング中止の理由です。

証拠はあるのでしょうか?さあ。私は客観的な判断を下すつもりはありませんし、その必要性を感じません。 私が入手した情報をもとに、個人的な主観で判断して、削除する事を決めただけです。ばうわう氏の行為(パスワードの操作、登録データの変更etc.etc.)が例え本当にあった事であろうと、 なかった事であろうと、少なくとも私及び私の知人や友人(例えそれがネット上のものであっても!)がばうわう日記を読んで受けた不快感は事実です。 これだけで理由としては十分です。そしてもう一度<前提>を読んでください。

http://nikki.ita.tutkie.tut.ac.jp/nikki/seimei.html

 事前予告無しの削除という強行手段をとった津田氏は非難を浴びた。それが神の判断であっても。ばうわう氏を中心とした荒らし行為が原因であっても。 『日記リンクス』はもはや一人の学生の物ではなくなっていた。 津田氏の日記を見ると、周りからの反応に困惑していた事が伺える。そして『日記リンクス』は彼にとってはあくまで自分の物という認識であった事も解る。

1996/07/05 そして全てが

■あぁ。freeWAIS-sfの日本語化パッチが動かない。環境は Linux-1.3.100+gcc-2.7.0だから、こちら(Linux Zen Penguin on Warm Milk + gcc-2.7.2+Pentium patch)とかなり近いはずなのに。なにがおかしいんだろう。アルファベットの検索は出来るんだけど、肝心の日本語検索が出来ないから 意味がない(>_<)。これが動いてくれると、メチャクチャうれしいのに。

作者の方にメールしてみようかなー

「 はじめまして、陰湿で冷血で、不意打好き、おとなしくて悪いやつの津田@豊橋技科大ですが、こんな私の質問にも答えていただけますか?」

ってね。

■正直いって、みんながそれほどまでに日記リンクスの事を気にかけていたとは思っていなかった。僕にとって日記リンクスとは、dbmで構成されたデータベースと、統一性のないperl script(+ たった一つのCのsource) の集合である。これを改造していく権利は当然自分にあると思っていた。

■日記リンクスはサークルでる。サークルからの除名である。名簿からの削除である。とする認識があった。 日記界と日記リンクスは別である。日記リンクスに登録しなくたって日記は書ける。僕はそうやって初めた。認識の違いは大きい。削除されたのは、formに文字を入力する労力以上のものだったのだろうか?

■不意うちであった事。自分の中では恐しく長い猶予期間を与えたと思っていた。これは錯覚だった事は確かだ。全く理解不能なランキングに対する批判をしながら、日記リンクスに参加してきた人がいた。認識のずれは決定的であると考えた。やめてもいいと思った。どうあっても分かってもらえるはずがないと思った。システムを批判する時にはシステムを理解すべきではないのか。これは一方的な理論で、普通の世界では通用しないだろう。 しかし私はそれが通じる世界で遊んでいたのではなかったのか。ならば、httpを学びcgiを学べ。それをせずにしたり顔でランキングを批判し、しかも自分の名前を登録してきた人間が確かにいたのだ。

■私はその時点で決断すべきだった。遅すぎた非はある。たくさんの人に迷惑をかける前にやめるべきだったと思う。

■その時やめておけば、あなた達はどのような反応をしたのだろうか? 公共的な性格を持つリンクならばいきなり閉鎖する事はやはり許されない事なのだ ろうか?削除する自由はないが、*やめる*自由はあるのだろうか? 200人なら許されるのか?600人なら許されないのか? 自分で制御できる人数って何人だ? 登録システムが無いならいいのか? きまりとして書けばいいのか? 誰が書く? 俺が?それだけの対価をあなた達は支払ったのか?

■まあ。どうでもいい事だ。システムへの攻撃が絶えない。私が続ける限りもはや日記リンクスの登録システムは復旧不可能かもしれない。それならばやめるだけ。

堕落日記(Masaru Tsuda's Home Page)

正直、大森アニ(あえてこう呼ばせていただく(^^;)から、不評だったのはこたえました。 リメンバーパールハーバーだから、宣戦布告してからやれって事ですね。 でもスマートなやり方は私には合わぬ。とは思うが。

堕落日記(Masaru Tsuda's Home Page)

1996/07/10 オレ達の夏は終っていた事にオレはとっくに気がついていたが

■fujihiroさんから「日記読んだよ。もう祭りは終ったんだね。」と言われた時はさすがにグっときた。「僕達の夏は終った…」と返そうかと思ったくらいだよ(^^;。一応チャット人格は、日記人格ほどに明るくばかで強まっているわけでわないので、それはなかったけれど。

■えーと。いいかげん飽きた。と宣言したにもかかわらずまた書かせていただく。ぐだぐだ書いていくのは本意じゃないけれど、一年以上つきあってきた今日記リンクス昔日記なページのリストに関する哀悼の言葉だ。そして歴史的事件を忘れないためにね。

■で、今の心境は昨日書いたので、今回は、コンテンツ提供者の立場から私がどう思っていたかを書こう。まず日記リンクスが場であるとみなさんが思っていたのは、本当に意外だった 。オレは公共性を持つページなんて、作りたいと思っていたことは一度もなかったし、出来るだけ日記リンクスはそうならないように気をつけていたつもりだった。

■公共性のあるページを認めないってわけじゃないけど、オレ自身には、「大多数の人にははばかばかしいと思われても、ごく一部に本当に好きで大切に思ってくれている人がいるようなページ」こそを作りたいという欲求があったわけだし。だから、みなさんがどう思っていようが、アレはオレが提供するコンテンツだった。すくなくともオレにとってわ。それがイヤなら津田はそう思いこんいたらしい(本当は違うのにかわいそう(;_;))。という事でもいい。

■ともかく、場か、コンテンテンツかどちらにしても、その内容がどれだけヒドイかったか、知らなさすぎるのは良くないと思うぞ(笑)。古参の人はランキングには飽き飽きだし、更新速度よりも、実用的な便利くんをつかってるからしょうがないとしても、そうじゃない人が気づいてないらしいのでめちゃくちゃ不思議(笑)。

■まーやってる事はとてもほめられた事じゃなかったね。ここで昔話をひとつ。 あるところにインターネットを初めたばかりの少年がいました。少年は とある有名なMLに入りたくて、管理者の人にくだらない内容のmailを出しました。てんで分かってない内容のメールだったのにもかかわらず、管理者さんは優しく答えてくれました。この出来事は少年を「初心者に優しくするのはネチケット」だと信じる偽善者へと育てあげまあしたとさ。 …という偽善者のオレはからすると、これはうしんぼうたまらんくらい許せない事ばっかり(笑)。偽善の血がめらめらと燃えた。オレとか四天王(笑)とか、 戦闘好きな大森アニにかみつくならいいよ。fjでvoidさんやらlalaさんやらにかみつくみたいなもんだろ。蛮勇かもしれないけど勇気はあるから。でもね、なんにも知らなそーな初心者の人とか女の子にもかみついていたんだよ。

■自分の日記に書くのは何を書いても勝手、という意見もあった。 それはたしかに独立系日記なら許せる。でも日記リンクスにある日記だとしたらそれは許せないね。オレはランキングや更新速度を通して コンテンツを提供出来ると信じてるんだから。口ではどういおうと、ランキングで上位にあるのはおもしろい日記である事をちょっぴり期待していたんだから。 更新速度も常に上にきがちで、ランキングも一番な奴は、そいつの書いた日記こそが提供されるコンテンツであると言っているようなもんでしょ。つまりね。全然知らない人がいきなり日記リンクス見りゃ、そりゃ、ランキング一番の日記は一番おもしろそうだし見てみようかね~って 事になりそうでそ。そうなった時、なにこれ、つまんなーい、それにとってもイヤだし不快な気分になるわね。と思われるのは日記の可能性に夢を見ていたい(笑)オレとしても、そして日記が素敵だと信じてるあなた達にとっても業腹な事じゃないのかな? 違うの?にえくりかえらないの?こんなはずじゃない。もっと楽しくて素敵な日記もあるんだよと言いたくないの?まあおもしろいかおもしろくない かは人それぞれの主観だけど、 残念ながら私は何がおもしろいかの選択に対する自信も結構あるし、その選択眼こそを見て欲しいという欲求もあるんだよね。暗黙的に日記を選択しコンテンツを形成するシステムである人気ランキングが、うまく機能しない事にいらだって作ったのが、わたしのベストセレクションであるんだけどこらへん分かってくれてる人はやっぱり少ないみたいね。

■あ~っていうかもう何かすごくもどかしい。コンテンツ提供者としてはくそつまらん日記が常に上にあるのはもちろん気に入らない事だし、でもそれはランンキングのシステム自体がもっているイカサマ性に起因している事だからなにもいえない。 だから組織票があったとしても「せいぜいひかえてくださいね。でも機械票はかんべんな(by 特攻野郎Aチーム)」ぐらいしかいえないぢゃん。おもてだってわ。

■どんなひどいページでも自分で宣伝し、自分で広めるんならかってにやってくれればいいと思ってる。それを妨害する権利なんてないもん。でもオレの提供するコンテンツでやるのは許さない。オレがそんなページへの宣伝活動の手助けをしてると思われるのもかなわないし。オレの選択眼があんなもんかと思われるのも屈辱的だ。が、あの状況ではそう思われてもしょうがないでしょ。それに対してもーどうしようもなくはがゆかったわけ。

■アクセスランキングだけ停止したらよさそうだけど、 そんな事したら次は、更新速度の方使ってくるのも目に見えていたし。 じゃあ、オレが日記リンクスのコンテンツだと信じていたものなんて、ほとんど使用不可になるわけだ。だからやりかたまずいとかまずくないとかいう議論の先にあるのは、「でもいずれは全部の機能が止まったに違いない。」なんだよね。 あのイヤがらせがあろーがなかろーが。

■つまり、結局なんだ。まずいやりかたであったのは認めるけど、それをやらずに、次々と機能を停止していくはめになるのは、腹がたってしょうがなかったって事でああゆう行動に出たわけだ。オレの書いたcount.cの値段は高いという事だ。

堕落日記(Masaru Tsuda's Home Page)

 この出来事について『オフピーク日記』が「630事件」と書いた事により、「日記リンクス630事件」といわれるようになった。 その後。『日記リンクス』は『ネオ日記リンクス』と名前を変え、存続はしていたが往事の存在感を取り戻す事はなかった。 ランキングの中止と事前予告無しの削除という行為の代償は大きかった。 登録型ウェブ日記リンク集の主役はばうわう氏の『日記猿人』に移っていったのである。

※以下の日記は、あくまで私見にすぎないことをお断りしておきます。

  • 津田リンクスに関する事件について私が思ったことのまとめ。
  • ばうわう様の行為は、私に言わせれば、「アクセスランキングと 個人データの私物化」だった。悪質なものと思われて当然の行為だったように思う。
  • ばうわう様は、津田リンクスを「自分の理想的な形」に近づける努力を続けていたのではないだろうか。
  • しかし、ばうわう様が自分の理想を津田リンクスに押しつけるのは、筋違いな行為だった。津田リンクスが個人のページである以上は……。
  • 津田リンクスが個人のページであるという「本来の姿」を知る方々にとっては、630事件は全くつまらない事件であったように思う。
  • 私的なものである津田リンクスで「してはいけないこと」を繰り返す人がいた。そのために管理者である津田様がその人を排除した。ただそれだけなのだから。
  • ところが、津田リンクスに対して「公的なもの」という「幻想」を感じていた方々は、少なくなかった。
  • この「幻想」が630事件を難しいものにしてしまったのだと思う。
  • 「公的なもの」という「幻想」を感じてしまった人たちが 現在の津田リンクスに幻滅を感じるのは当然だと、私には思えるのだ。
  • 「事実誤認」と、それによる「幻想」。その原因がどこにあるのか。その答えは、まとまりそうにない。
  • 津田様の声明文は、彼らの「幻想」をなくすという意味で重要なものだったと思う。
  • その後、津田リンクスで起こった「テロ行為」。これには津田リンクスをつぶそうとする悪意を感じた。匿名性の悪い面が出てしまった。ほんとうに残念だ。
  • しかし、私は、津田様が日記リンクスを立てなおされることを願っている。津田リンクスに「平和」が戻ること。津田様にとって楽しい日記リンクスになること。これらは現実のものになると、私は思う。
  • 三ツ矢のオフピーク日記。7月9日(火)(三ツ矢浩之のホームページ)

  • 今更こういう事を言い出すのは反則かもしれないが、半年たって考えるに、日記リンクスというのは、一学生が趣味でやっていたもので、一学生が趣味でやっていた遊びに、その雰囲気を共有できない人が入り込んできた(あるいは単に,増えてきた)ことによって破綻したのかな、と、思うのだった。
  • 「学生」とか「社会人」とかいう言い方をしてネット上で活動している人々を区別することに意味があるのかよくわかんないけれども、学生がネット上で学生らしい遊びをしているところに、社会人がが乱入してきて「学生くさい遊びをしてるんじゃない! 君たちも大人だろう!」とかいって、けっきょく、学生に甘えて社会人が遊びだした、ってのが問題だったんじゃないかなぁ。
  • とか書いてみても「学生」と「社会人」の違いが,自分でもよくわからねーや。まーしかし、どーも日記リンクスに対する批判/非難に「学生だから」ってのが必ず出てくる気がするなぁ。まぁ、日記リンクスを擁護する側も「学生だから」って言ってる気もするけども。
  • しかし、まー、実は、大学の高速で強力なサバを使えて、UNIXやら言語の知識を持つ「学生」はネット上では強者で、「社会人」が弱者だったわけだし、学籍やら本名やらが基本的に明らかである学生と、プロバイダにアカウントがある正体不明の「社会人」を比べれば、どっちが無責任だったか,と考えたりするのだった。(って要は、ac.jpは信用できたけども、or.jpが増えて、ネットが乱れた、って意見になるわけだが。)
  • つまり、まー、ネット世界は(っていうか、日記系リンクの世界は)「無責任な学生の世界から、責任ある社会人の世界になった」のではなく、「幼児が暴れても危険がないように安全に設計された幼稚園の中で,安心して幼児がケンカをしている世界」になったんじゃないかなーとか思うのであった。うーん、ちょっと言い過ぎだなぁ。でも、まぁ,「保母ぢうよう」ってことは本当だと思うのだった。
  • 970324b(月)【さようならネオ日記リンクス】 MOROBOSHI Tomorou HomePage

     1996年7月2日、日記リンクス登録番号185番『あばれるぞ!』の高野更正氏は登録型ウェブ日記リンク集『ReadMe!JAPAN』を開設した。

    wwwh9@www1.meshnet.or.jp (たかのゆきまさ) 1996/07/08 17:58:02
    たかのゆきまさと申します。はじめまして。


    このたび、ReadMe!という
    新企画を始めました。目指せ日記リンクス!です。
    みなさん、参戦及びリンク、よろしくお願いしま~す(^_^)

    伝言板nozomi Ohmori SF page

     『ReadMe!JAPAN』は、サイト登録を「参戦」としており、アクセス数ランキング争いに主軸が置かれた。 アクセス数は『ReadMe!JAPAN』からのアクセス数ではなく、参戦しているサイトのアクセス数によって競われた。 具体的には、参戦サイトは『ReadMe!JAPAN』のサーバーにあるバナーをサイトに貼り、『ReadMe!JAPAN』はバナーへのアクセスを取得してアクセス数をカウントした。


     サイト登録の条件は「読み物」であれば何でもOKという間口の広さ、これは『ReadMe!JAPAN』に有力サイトが次々と集まっていく要因になった。

    日記猿人812事件

     津田氏から神の座を奪ったばうわう氏であるが、そのやり方の強引さは多くの非難を浴びた。 そして自分を非難したサイトに対し、掲示板に突撃し、自分を正当化するコメントを延々と続けた。 売られた喧嘩は買う、ばうわう氏のその姿勢はある人には強く見え、憧れの対象になったかもしれないが、さらに多くの敵を作る事にもなった。

     1996年8月、ばうわう氏は「未確認日記物体UDO”誘導”」を企画する。 『ReadMe!JAPAN』から『日記猿人』へ人を誘導させる事が目的であったといわれている。 企画の具体的な内容としては『日記猿人』に登録されている日記の紹介になるのだが、これが非難された。 紹介された日記は当然ランキングが上がる。ばうわう氏は『日記猿人』の管理人という立場である。 そのばうわう氏が特定の日記を紹介するという事は、結果として『日記猿人』の運営側がランキングを操作するという事になってしまう。
     これを『日記猿人』の私物化であると非難したのが、日記リンクス登録番号282番、『日記猿人』にも登録している『デーテーペーな1日』の夜久則彦氏であった。 氏は1996年8月6日、「ばうわう公式ウォッチング日記物体BOWDO”暴動”」を始めた。 氏は『日記猿人』に書いてあった”日記猿人の利用をおことわりする場合”について「これで最初に削除されるのは「とほほ日記」以外にはあり得ない」と主張した。 ばうわう氏はサイトに自身の顔写真を掲載しており、リンク自由・ダウンロード自由としていた。「BOWDO」はこの顔写真をネタに使った。


     そして歴史は繰り返される。

     1996年8月12日、ばうわう氏は自身を非難する日記を『日記猿人』のリストから削除していった。 登録されている日記を管理者権限で削除するという行為は、かつて津田氏が行った事と同じである。 これに対し、反ばうわう派は削除された日記を再び登録し対抗。その代表格である夜久氏も『デーテーペーな1日』「BOWDO」をリストから消される度に再登録を繰り返した。

    「デーテーペーな1日」のページは、「日記猿人」のばうわう氏の手により、8/12から、次々と登録が消されています。「デーテーペーな1日」の本来の登録番号11番では、「新作Top100」にも登録できません。

    「デーテーペーな1日」のURLのみを排除している訳ではなく、どうやら手作業で削除しているらしく、彼が寝ている間は新規登録が出来ません。せこいなぁ~、起きてからゆっくり削除したらいいじゃん。他の人に迷惑だぞ。偏執狂の一面はこんなところにも。新規登録すると登録できますが、数分後にはその登録も排除され、「デーテーペーな1日」と「BOWDO」は「新作Top100」から姿を消されてしまいます。すでに、30分間で7回、この措置が行われました。私はそのため、何度も新規登録する事になります。突然の、毎日の、ばうわう氏の陰湿さには、絶句です。せめて、何らかのアピールがほしかった。無言の実力行使なのだ。

    こんな事延々とやっていてもしょうがないので、この辺でヤメにしますが、元ネタご覧になりたい方はこちらです。  本日の更新は昨日と同様、頻繁でしょう。追記をお待ち下さい。

     しかし、ばうわう氏も苦しいところです。自分の気に入らないから削除した、では共感を得るのは難しいだろうし、かといって、BOWDOでの例のファイルの無断使用が原因とすれば、私が無断使用をやめればそれを理由にすることが出来なくなる。最も、私の日記へのリンクを1行コメントに入れたばっかりに「書評日記」を登録削除してしまったのは、まったくの勇み足。人間カッとして行動するとろくな事にはならないことの証明でしょう。彼への登録削除はすぐさまやめた方がいいと思いますが・・・ばうわう公式ウォッチャーの助言は聞いたほうがよいと思いますよ。
     しかし、彼が今回の行動にでたいちばん大きな原因は、昨日のBOWDOの中で私が書いた、スポンサー云々のくだりに対しての危機感が第1なのでしょう。
     彼が日記猿人で参加者に媚びを売り(結局、UDOは反発が大きくてやめてしまったが、あれを夏休み中の一時の企画だと強弁する姿勢にもうんざり)、自分の過去の行動をまったく恥じることなく、消し去ろうと一生懸命なのは、いずれはスポンサーを日記猿人に付けようとする彼の野望があるからだろう。アクセスカウンターを付けて、スポンサー向けのデーター収集も進んでいるようです。それなりに投資も始めているので、秘かに水面下でのスポンサー探しは始まっていると見ているが、どんなもんでしょう?ばうわう氏。
     浪人相手の進学塾ではスポンサーにはならないでしょう。浪人はネットサーフして呑気に日記書いてるわけにも行かないですから。
     何よりスポンサーは、つまらないトラブルに敏感ですから、個性的なキャラクターの多い日記界をとりまとめて、仲良しクラブを運営するのは相当に骨の折れる作業となるでしょう。

     今回の騒動で、折角の"場"を荒らしてしまったことについて、すべての日記猿人参加者の皆様におわびしたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。
     些細なことなのかも知れません・・・不問に付していれば波風もたたず、ネット上で図らずも知り合えた多数の日記達と、平穏にランキングを競って楽しめたのでしょう。しかし、彼が日記上で公言していた"大悪事"の数々・・・取り立ててどうという事のない対人関係上のトラブルを、どうやら無かったことにしようとしているように私には読めたのです。自らの行為を隠蔽し、保身まみれの文章で日記猿人への参加者に不遜な宣言を突きつけているように思えて、耐えられないほど不快な気分だったのです。
     図らずも日記リンクスでのばうわう氏の行為をなぞる結果になったことには、私自身もうんざりしてます。しかし、高圧的に押さえつけられると、劣等感だらけの私の愚かな"思い"が、どうしようもなく、彼の結論にあらがうのです。私自身が彼の結論を待っていたことは確かですが、あまりに短絡的な彼の行為には、やはり危ういものを感じてしまいます。
     しかし、私以外の日記猿人参加者の皆さんには早急に結論を出すことなく、この問題がどう決着が付くのかを、見ていて戴けないでしょうか?私の立場は変わりませんが、決して他の参加者の方を巻き込むことが本意で無いことだけは信じていただきたいと思っています。

    8月13日(火)の、デーテーペ(デーテーペーな1日)

     ばうわう氏への非難が嵐のように吹き荒れた。その様子は「日記リンクス630事件」と同等かそれ以上であったと伝わっている。

    先人の轍を践むというのだろうか, その夜久氏の日記をばうわう氏は独断で日記猿人から警告なしに削除するという行為に出た. 日記猿人は津田日記リンクスと同様,或いはそれ以上の修羅の場と化した. 裏掲示板にばうわう氏に対する罵詈雑言,或いは彼のアイコラなどが張り付けられたりした. これは彼を激怒させたらしく,それ以来ばうわう氏は素顔をネットに晒さなくなった. 野球帽を目深にかぶった写真か,あるいは CG を使うようになった.

    マスコミのような正義感で傍観者たちは新管理人ばうわう氏の専制を批判し攻撃した. ばうわう氏は暴徒とその同調者を次々に排除した. ところが排除されると同時に彼らは「再登録」した. はしたない泥仕合が始まった. 徳を失い,身を守る軍事力も持たない君主は多勢に無勢,去るしかない. 結局ばうわう氏は 8/14 に日記猿人の管理者を勝手に辞めてしまい, 彼の日記「とほほ日記」の更新もやめてしまう.

    インターネットにおける自発的コミュニティの形成,特に Web 日記に関して(Hacked by NAGAE Takanori (3ki3ro) )

     そして、ばうわう氏は神の座を降りざるをえなくなった。彼は他人への攻撃には強さを見せたが、いざ自分が守勢に回ると脆さを見せた。
     事が起きて僅か二日、1996年8月14日にばうわう氏は『日記猿人』の管理者を辞任。『とほほ日記』を削除した。 ばうわう氏が『日記猿人』から退場したこの出来事は「日記猿人812事件」といわれた。『日記猿人』は池川氏とせんべい氏によって運営が続けられた。 然し、間もなく『とほほ日記』は復活し、しかも『日記猿人』へ再登録した為に『日記猿人』とばうわう氏間のいざこざは続いていく。

     もともと、何故こんなページを始めたかと言えば、最初のきっかけは、ばうわう氏のUDOなる企画ページの存在でした。単なる登録番号0番の日記者の企画なのか、公式な日記猿人のコンテンツなのか不明でしたが、表紙からもリンクが貼られている事で主催者としてコメントしていると理解しました。その中で、何やら参加者をどこぞへ誘導すると言う一節があり、例によって、誰かに強要されたり干渉されることに過剰に反応する私の悪しき癖が出てしまいました。日記猿人の主催者として、どこぞの高みからか参加者を詮索する彼の様子が目に浮かんで不愉快でした。
     もっとも、最初は、彼のUDOが参加者へのコメントを付けるなら「とほほ日記」へのコメントは僕が付けようと言う程度のことでした。よどんだ仲間内ネタにまみれた日記と不公平なランキングに噛み付いていた頃のばうわう氏を知る者として、最近の彼の行動の端はしに不明なものを感じていたからです。
     正直言って、半分ゲーム感覚で始めたことはたしかです。しかし、私は迂闊なことに、日記猿人の表紙の取り扱い説明中の「日記猿人の利用をおことわりする場合」と言う文章をBOWDOを始めてから読んだのです。あの文章については、到底承伏しかねる部分が色々ありました。あまりにも管理者側の保身だけを目指した文章で、表現の自由に対する配慮はまるで感じられませんでした。それ以後、挑発のボルテージが上がったことは事実です。下品で愚劣な行動を進んでくり返すつもりでした。そう、「日記猿人管理者」ばうわう氏は私をどう処遇するのか。しびれを切らしたばうわう氏からのメールが、最初の兆候であることはすぐ理解できました。あの顔写真は以前はリンク自由・ダウンロード自由と書かれていた筈です。もちろん、無断使用禁止と言われた以上、それ以後も使い続けるのが違法な行為であることは承知の上で、かれの要求を拒否しました。その後の反応はいささか急にすぎましたが、私の想像通りの展開になったことはご承知の通りです。

     日記リンクスでの彼の行動の一部始終を知る私には、意外なほどのばうわう氏の脆さに、正直驚いています。Nifty等のパソコン通信上でのフレーミングに破れた人達と同様、ほとんど人格崩壊の様に見えて、胸の詰まる思いがあることも、ここで言っておきます。彼には管理者としての力の発露でしかない"削除"ではなく、かれの日記上で公然と私を批判していただきたかった。論争することで、新しいルールが出来上がる可能性があった筈なのに、力で押さえつける行為に何の意味もないことを知るべきでした。

    BOWDO(デーテーペーな1日)

     津田さんが強制削除を行ったときに、あれだけ文句を言った人物が、自分が管理者になると、強制削除を行うというあたりが、私がばうわう氏が信用できないと感じる点です。あの強制削除によって、津田さんの強制削除に反発して「強制削除のない日記猿人」という理想を信じてついてきた登録者を、ばうわう氏は自らの手で裏切ったわけです。同時に氏は、自分で生み出した「日記猿人」というコンセプトに対しても、裏切りを働いたわけです。
     あの時、ばうわう氏がとれる方策はまだいくつもあったはずなのに、なぜ、ばうわう氏だけは断固として行ってはいけない強制削除を行ったのか? 行ってもいいという決断があったのなら、なぜ、事後に釈明なり説明なりをしなかったのか? 管理者を止め、管理者としての責任から逃げ、インターネットを止めると宣言することで、web上の言論者であることからも逃げた氏は、この時点で、ネット的に死に、以後は、まったく信頼のおけない人物、「ネット的禁治産者」と呼んでも過言ではない状態だと、私は考えます。

    Warp Diary 1997 September 24th - ByeByeBowWowMOROBOSHI Tomorou HomePage

     1997年3月24日、『日記リンクス』の後継であった『ネオ日記リンクス』が終了した。

     『とほほ日記』は『日記猿人』に登録され続けており、ランキング争いを繰り広げていた。『日記猿人』は1997年6月30日から同年7月15日までランキングの仕様に関するアンケートを実施したのだが、ここでばうわう氏による不正投票が発覚した。 同年8月5日、『日記猿人』はばうわう氏に対し、公開質問状を出した。下記を行わないと約束せよという内容であった。
      ・一人で複数のメールアドレスを使い日記猿人に対する不正な投票をする。
      ・他人のコンテンツを他人の名前をかたって日記猿人に登録する。
      ・その他日記猿人の運営に対する妨害・破壊行為を言論以外の方法で行う。
     1997年9月19日、ばうわう氏は『とほほ日記』を『日記猿人』に改名した。これにより『日記猿人』という名のサイトが2つ存在する事態になった。

     1997年9月23日、オリジナルの方の『日記猿人』は不正を行なったばうわう氏によって登録されていた6つの日記をリストから削除した。
     1997年10月2日、オリジナルの方の『日記猿人』に『日記猿人ばうわうさんと』というサイトが登録された。この日記ではばうわう氏、とほほ日記のほうの『日記猿人』を賞賛する内容の更新がされていった。然し、このサイトの管理人、石久ひでおの正体はばうわう氏であるといわれた。
     1997年11月12日、オリジナルの方の『日記猿人』は登録されている8つのサイト『日記猿人について』『BOWDO2』『日記猿人』『さわやかオールウェイズばうわうさん』『お知らせ』『b-mail with ばうわうファン』『BOWNOW』『ばうわうテレビ』 が全てばうわう氏の物であると告知した。
     1998年11月19日、オリジナルの方の『日記猿人』は上記8サイトを登録から削除した。

    *:「日記リンクス630事件」や「日記猿人812事件」に関する文は、2020年現在で『Internet Archive』から当時の文を掘り起こしても ばうわう氏に否定的な意見の文ばかり残っており、同時にばうわう氏の文が『Internet Archive』に残っていない。 従ってフェアな状況とはいえないので、ばうわう氏の立場からの意見に近いと思われる文を引用する。金田善裕氏の本にある一文。 この本の文がばうわう氏の立場からの意見に近いと思われる理由として、 ばうわう氏へ取材をしている事。氏以外にも幾つかのサイト管理人について取材しているのだが、 取材で本人から聞いた話を元にそのまま書いていると思われるからである。(その為に、この本には時系列的な事実とは明らかに違う個所がある事に注意。例えば206ページから207ページの記載)

     深瀬さんにはちょっとした武勇伝がある。 「とほほ日記」を作っていたころ、『日記リンクス』という個人の日記を登録するホームページがあった。登録したホームページにリンクを張り、日記を更新すると、更新したという情報を流すことができる、そういう仕組みのホームページだった。
     この『日記リンクス』は愛知県の学生が運営していたのだが、管理上の問題になると「学生が遊びでやっていることですから」という決まりきった説明に終始することが問題となり、利用者と管理者のあいだでもめた。 深瀬さんは自分の日記でこの問題を取り上げ、先頭に立って管理人を批判する側に回った。 やがてその批判の渦は大きく広がり、いろいろな人たちがそれぞれの日記上で批判を展開するようになった。
     管理者はやがて、自分のことを非難する日記ページを削除してしまったが、それがまた、大きな問題となった。
     結局、「意見を戦わせる建設的な場所を設けようとしない」という批判が高まったところで、『日記リンクス』は、何の告知もなく閉鎖されてしまった。 管理人の学生が批判に耐えきれなくなってしまったのだ。
     この問題については、以後もインターネットの日記作者たちのあいだで、いろいろな形で語られることになった。 深瀬さんのように批判した人も多いが、学生がやっていたホームページをつぶしてしまったという、『日記リンクス』の管理者に対する同情論も少なくなかった。
     深瀬さんは、なくなってしまった『日記リンクス』の残党の為に、「とほほ日記」の一部に「日記猿人」というコーナーを作り、日記のリンク集を作った。 最初は普通のリンク集だったが、『日記リンクス』と同じように日記の更新情報がリアルタイムに表示されるシステムを作ろうとうプログラマーが現れ、一九九七年一〇月、独立した「日記猿人」(現在の「日記才人」)が立ち上がった。
     ところが歴史は繰り返す。管理者の深瀬さんは管理上の批判を複数の参加者から受け、自分を批判する日記を削除してしまったのだ。さらに、その行為に対する批判が高まって、翌月の一一月には管理者の座から追われてしまった。
    「自分が中心で回っていればいいと考えて、やってしまったんです。そしたら反発する世論が高まって、私はやめることになった。 聞き流せば何でもなかったんですが、私の名前が出ていて汚い言葉が書いてあると、頭のなかがすべてそのことになってしまって。 まずいですね、はたから見れば何でもないんです。それが反省材料として今に残っています」

    第10章 辛口テレビ批評に読者1日1万人 --日刊TVコラム 日記猿人(金田善裕著 個人ホームページのカリスマ)

     なお、真相は不明だが津田氏にも不正投票疑惑はあった。「ある日、「とほほ日記」のランクを上げようと、彼は、自分のボタンを連打したらしい。これに対抗した日記ランキングの主催者が、ひいきの日記にこれまた連続投票したらしい」⇒Cafe' Cliche' : マスダ古書店Back-Up

    4.1999年~2004年 『ReadMe!JAPAN』の躍進

     1999年2月6日、H.Nakatsukasa氏は登録型ウェブ日記リンク集『日記圏』を開設した。ここはランキング機能を持たない、更新報告機能だけのシンプルな物。 『Yahoo! Japan』の「今週のオススメ」2000年9月4日号や週刊アスキーの2001年2月27日号で紹介されているが、他の登録型ウェブ日記リンク集に比べて地味な存在であった。 それでも登録サイトからの更新報告が一日で250程度(*4A)はあり、 単純な登録サイト数は最終的に13000ほどあった。これは2000年以降ブロードバンド・アクセス・ネットワークが普及し、比例してサイトを持つ人が急増した事を示している。

    *4A:『Internet Archive』に残る『日記圏』の手動更新報告リストページから算出。 2001年10月5日の0時~5時59分で94サイト。同年8月2日の6時~11時59分で49サイト。9月14日の12時~17時59分で31サイト。23時6分で69サイト。合計243サイト。 『日記圏』は24時間分の更新リストを見ることが出来ない為に3日に分けている。

       1999年12月12日、【な】氏 は登録型ウェブ日記リンク集『テキスト庵』を開設した。

     『テキスト庵』はサイト登録に一つの条件を課した。それは「段落文体」である事。 段落文体とは「段落の途中で強制改行を入れない文体(「強制改行」=書き手が意図して入れる改行。HTMLでは<br>)」であり、ようは普通の文。 強制改行が入っている文とは例えば『侍魂』のような改行を沢山入れる文。 ウェブで流行している文を登録させない『テキスト庵』に集まったのは読み物に特化したサイト達であった。そしてこれが『テキスト庵』の存在価値であった。

     日記リンクス登録番号388番『個人情報頁』の東京工業大学助手・永江孝規氏は、1998年に尚美学園短期大学に移り、助教授の立場にあった。 1999年、永江氏は「インターネットにおける自発的コミュニティの形成,特に Web 日記に関して」をサイトに公開した。 内容は日本のウェブ日記における歴史と考察であり、無論中心に書かれたのは『日記リンクス』『日記猿人』とそれに関する動乱であった。 同文は尚美学園短期大学の紀要論文にもした。

     2000年6月、オリジナルの方の『日記猿人』は新システムの開発を開始した。

     2000年8月19日、津田氏は新たな『日記リンクス』を公開したが、最早話題になる事はなかった。

     2001年1月1日、オリジナルの方の『日記猿人』は新システムへ切り替え。併せてサイト名を『日記才人』に変更し、新たな一歩を踏み出す。

     この頃の『日記才人』は池川氏がサーバーを提供し、遠藤氏と牧氏が管理する体制であった。 サイト名を変更した理由は、ばうわう氏との争いによる物なのは言うまでもないが、後年牧氏は不本意であったと語っている。 これにより「日記猿人」という名はばうわう氏の物になった。そして『日記リンクス』から続く動乱はついに終わりを告げた。

     長きに渡って動乱を抱えていた『日記才人』に代わり存在感を示したのは『ReadMe!JAPAN』であった。 日記リンクス630事件時に開設し『日記リンクス』の後釜を狙ったこのサイトには 日記だけではなく様々なジャンルのサイトが登録していった結果、当時の個人サイト無差別級ランキングといえるものになった。 この点については段落文体という制限をかけた『テキスト庵』とは対照的である。

     『ReadMe!JAPAN』はそのランキングに存在価値があり、多くのサイトが登録しアクセス数を競った。事実上のランキングサイトになっていた(*4B)。 ランキング上位には当時の各分野最大手サイトが立ち並び、錚々たる顔触れであった。代表的なサイトとして 『裏ニュース!』『TECKSIDE.NET』『水無月情報ページ』『悪徳商法マニアックス』『変人窟』『いっしょにTALK』『侍魂』『バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳』『MOON PHASE』『探偵ファイル』『POPOI』『かーずSP』 『連邦』『PlayStation mk2』『かとゆー家断絶』『(・∀・)イイ・アクセス』『楽画喜堂』『TBN』『僕の見た秩序。』『X51.ORG』『ABC振興会』『朝目新聞』『極限攻略データベース』『アキバBlog』『ザイーガ』 『ゴルゴ31』『イミフwwwうはwwwwおkwwww』『ニュー速クオリティ』等が挙げられる。 とほほ日記の方の『日記猿人』も2002年まではランキング上位に顔を出していた。 『ReadMe!JAPAN』のランキングを見れば当時のウェブ文化の全体像が解るといっても決して過言ではない。 サイトのジャンルとしては個人ニュースサイト、テキストサイト、ゲーム情報サイトが多かった。サイト末期の2006年には2ちゃんねるまとめサイトが上位に来るようになった。

    *4B:『ReadMe!JAPAN』のDaily Report(日刊ランキング)上位30サイトを表にした。『Internet Archive』に残っている物から1年当り2日分を取得している。 本当は年間ランキングがあればそのほうが傾向を掴みやすいのだが、ランキングは月間までで、その月間も実装されたのは2001年に入ってからな為、已む無く日刊ランキングにしている。 日刊の方がアクセス数の実感は沸くだろう。1998年以前と2000年以降でアクセス数が大きく違うのはブロードバンドの普及による物と考えれられる。

     下表はサイトをそのジャンルごとに色分けしたもの。ピンクは「テキストサイト」、黄色は「個人ニュースサイト」、青が「ゲーム系サイト」、緑が「2ちゃんねるまとめサイト」。 テキストサイトがテキストサイトブームの2001年~2002年に全盛期で、2003年から下降線になっている事がわかる。 2ちゃんねるまとめサイトは2005年から登場し、2007年には上位を占めるようになった。『ReadMe!JAPAN』が2008年以降も続いていれば、 上位30サイトの大半が2ちゃんねるまとめサイトになったと考えられる。

     『ReadMe!JAPAN』のアクセスランキングに参加しているサイトには必ず『ReadMe!JAPAN』のバナーが貼られていた。 それは『ReadMe!JAPAN』が“バナーが表示されるたびに1カウント”という集計方式をとっていた為である。 其れ故にバナーの貼り方に議論が発生した。つまり、トップページだけにバナーを貼るか、サイト全ページに貼るか、である。 例えば「うちは他のサイトと違ってトップページにしかバナー貼ってないから」と何回もいう大手個人ニュースサイトがあった。 このサイトが「トップページだけにバナーを貼るべき」と主張したのは考えてみると当たり前であった。 個人ニュースサイト形式ではトップページにアクセスが集中し、過去ログへのアクセスは殆どない。 対してテキスト形式のサイトでは過去の名作テキストには継続的に幾らかのアクセスはあるし、過去のテキストがある日突然大量アクセスされる事もある。 つまり個人ニュースサイトからすれば「トップページだけカウントすべき」というルールになればランキングで有利に働くのである。

     さて、『ReadMe!JAPAN』を語る上で欠かせないサイトがある。それは『HEY BULLDOG』。 1997年1月14日に『hosokinの出版業界喧嘩道場』というサイト名で開設し『ホソキンズ ルゥム』『HEY BULLDOG』と変えていったこのサイト。 1998年8月25日から開始した「ReadMe!新作レビュー」は、『ReadMe!JAPAN』に新規登録されたサイトを読み、全てに感想の一行コメントを書くという物。 一行コメントをしたサイト数は2001年7月20日までで実に5398。恐ろしい数のサイト読みを行なったが、一番恐ろしかったのは付けたコメントであった。 表現が余りにも直球だったのである。

     下記の様に、そこまで言わなくてもいいのではと思える直球コメントが多数あった(*4C)。
      「人をどうやったら笑わせられるか皆目分からないおかたが、とりあえず舞台の上にバナナの皮を並べてみた、という感じ」
      「ほどほどにつまらない雑文」
      「つまらない日記がありました。過去の奴も、読んでも読んでも面白くなりません」
      「オレを怒らせようとしてやっているとしか思えない女の子系ページです。クソブス女(推定)、死ね!」
      「中学生なみの文章表現力と頭の構造がイカしてます。カッコいいつもりの馬鹿野郎様です」
      「涙が出るほどつまらないページ」
      「19歳男性のかたのページです。写真は猛烈ブザイクです」
      「頭悪げな文章が並んでいる、疑似毒系なかたの日記がありました。悪げというより本当に悪いんだろお前は。ちんこでもいじりながら寝ろ」
      「ダラダラと自分およびその周辺の話を書いていれば人様にも面白く読んでもらえるだろうと勘違いしている女性のかたの、つまらないページでした」
     頼んでもいないのに勝手にレビューし痛烈なコメントをする『HEY BULLDOG』であるから、 勿論それを恨む者も出てきた。尤もウェブに公開している以上、読者からネガティブなコメントをもらう可能性があるのは当然の事といえるし、 それが嫌ならばウェブに文をアップロードするなという話でもある。

     2002年8月9日、『D-Point』「日記才人裏年表」を書いた。この年表では『日記リンクス』開設から『日記才人』誕生までを纏めた。

     2002年11月、「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れないと言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)」の言葉で有名な「ブログ騒動」の勃発により、日本でもブログという言葉が広まっていった(*4D)。

    *4C:その毒舌ぶりは『NO-FUTURE』が「レトロ・リンク」に「くらえ怒濤の”細田でした~”攻撃」で纏めている。
    *4D:私が纏めたもの⇒「2002年のブログ騒動について今更振り返る

     2003年になると、商業のブログサービスが次々に始まった。代表的なものとして下記がある。

      ・2003年1月:はてなダイアリー
      ・2003年11月:livedoor Blog、Seesaaブログ
      ・2003年12月:ココログ
      ・2004年2月:JUGEMブログ
      ・2004年3月:gooブログ、ウェブリブログ
      ・2004年6月:ヤプログ
      ・2004年7月:エキサイトブログ
      ・2004年9月:So-net blog、アメーバブログ
      ・2004年10月:FC2ブログ
      ・2005年1月:Yahoo!ブログ

     2005年5月か6月、『日記圏』は消滅した。

     2006年6月20日、『日記才人』は開設して10年を超えた。サイトを開設させた際、ばうわう氏はせんべい氏に「日記猿人は10年続けたい」と語ったが、これは現実になった。尤も、当のばうわう氏がサイト運営に関わっていたはほんの数ヶ月のみであるが。 10年を超えたといっても登録型ウェブ日記リンク集は世の中的にその役目を終えつつあった。 商業のブログサービスに利用者が集まる中で、ウェブで日記を書くときに態々ホームページスペースを借り、HTMLを書き、個人サイトとして公開し、リンク集に登録し、という時代ではなくなっていた。 商業のブログサービスは、利用者にとってHTMLが解らなくてもウェブ日記が書けるという大きな利点があった。さらにトラックバック・コメント欄・RSS配信等機能面も充実。 サービス内でランキングも行なっていて、検索エンジン対策も強かった。商業のブログサービスに利用者が集まるのは当然だった。

    5.2005年~2010年 最後の砦となった『テキスト庵』

     2007年6月20日、『日記才人』は閉鎖のお知らせを掲載した。このサイトのサーバーは初期は池川氏が提供し、それが使えなくなってからは他のサーバーを借りていたのだが、それも維持できなくなった事を閉鎖理由にあげた。

    ご挨拶

    日記才人は2007年7月中旬に閉鎖いたします。直接的な理由はサーバーの維持ができなくなったためです。根本的にはこのサイトはとうの昔にその役目を終えていたからです。

    このサイトは元々バラバラに更新されていた個人のページの更新状況を一括にまとめて皆で見れるようにしよう、という趣旨のサイトでした。当時はブログサイトなど存在せず、このようなサイトでないと誰がいつ更新をしているのかがわからなかったので当時一ユーザーであった私も重宝していました。

    今はブログサイトがあちこちにあります。更新を報告なんぞしなくてもいつのまにかRSS等でまとめられて配信されています。そして私もそのようなサービスを使い、他の仕事をし、正直このサイトに対する情熱は段々なくしてしまいました。その点とても心苦しく思っています

    ともあれ、今回は延命処置はせず、このまま幕をおろすことにしました。日記才人はいろんな絆を作りました。僕個人にとっても、いろんな人にも。

    それでいいんだと思います。

    最後の最後まで日記才人を使ってくれていた方々、前は使っていたよ、という方々、皆様本当にありがとうございました。

    またいつかどこかで出会えたら・・・その時はよろしくお願い致します。

    2007.06 牧 大輔

    日記才人は7月第2週の週末に閉鎖予定です。長い間ありがとうございました日記才人

     2007年7月15日、『日記才人』は閉鎖した。

    日記才人は7/15を持って閉鎖いたしました。

    ひょっとしたら違う形でまた何かしらのサービスを始めるかもしれませんが、 とりあえず終了です。

    約11年、ありがとうございました。

    日記才人

    サイトを自力で生き残らせるために特殊法人のようなものにするとか色々考えたり、調べたりしてる間、俺もyazさんも最初は「コミュニティの力」というものを信じようとしてた思う。

    商業ベースにのせなくとも日記才人を非営利でみんなのサイトとして存続させて行く事にみんなが少しずつでも手伝ってくれる事を期待してた。だけどそれは現実的ではなかったらしい。

    一番よくサイトを使ってくれていた人達でさえ「がんばれ」と言うだけだったから、きっと「してくれなかった」のが云々とかそういう話ではなくて、そもそもそういう期待をしてはいけないものだったのだと思う。

    一人一人の人間はどんなにいい人達でも顔のない「ユーザー」という存在にはそういう事を期待してはいけなかったんだと思う。

    サイトを続けるって正直異様な情熱が必要だと思う。でももうその情熱は俺にはない。はるかに便利なツールがあふれているからもう誰もそれを期待してないしね。

    そうそう、俺はサイトを潰した張本人と言われてもしょうがないので正直お礼を言われるのは筋違いのような気がする。そして別にそれはそれでいいんだけど、ひとつだけ、ちゃんと書き残しておきたい。

    この10年間、日記猿人/日記才人というサイトは10人に満たない人達(その中でも特に俺以外の二、三人)の善意のみで続いていたんだ、ってこと。そして、誰もそれを表に出さなかった。俺は図々しいから言ってたけど。

    感謝しろということではなく、単純に今の商業ベースのブログ達と比べた時に感慨深いと思うのだ。

    あれは奇跡に近かった。

    でもきっと本当に一部の人以外誰も知らなかったと思うのだ。

    だからここに最後に記録として残しておく。

    Fare thee well, 日記才人 : D-7 <altijd in beweging>D-7 <altijd in beweging>

     2007年10月28日、『ReadMe!JAPAN』はサーバーに故障が発生した。11月1日からはランキング集計がされなくなった。
     2007年11月18日、『ReadMe!JAPAN』は告知を出した。「システム復旧は可能だが、最早この作業に割く時間が微塵ほども残っていない」という内容であった。 この日よりランキング集計が正式に停止となり、更新報告機能だけが残っている状態になった。
     2008年2月29日、『ReadMe!JAPAN』は閉鎖した。

    2007年10月22日、僕はマンハッタンの街角に立っていました。

    折り悪く、この日はタクシー組合がストライキを敢行中。動いているイエローキャブの大半はメーターを停止され、数ブロック乗せてもらっただけで二人で$20取られるボッタクリに、少しは腹も立ちました。
    けれどもストライキの目的が「GPSとクレジットカード支払機の搭載義務化に抗議するものである」と後に知り、僕は素直に「カッコイイ」と思いました。

    1996年の僕は、メモリ16MBのデスクトップPC・3分40円の高価な回線・28,800bpsのモデム・月$20のバーチャルサービスを使ってReadMe!を立ち上げました。
    2008年の僕は、メモリ1024MBのノートPC・月6千円で使い放題の100,000,000bps FTTHを通じ、東京から600km離れた街で仕事しています。
    この12年、技術の進歩は実に驚くべきものです。

    にもかかわらず、こんにちの生活は、必ずしも豊かになったとは言いがたいものがあります。
    世を占めるウェブサイトの多くが時間泥棒へと姿を変え、ときには人々を苦しめるための凶器に成り下がっています。
    Alexaの調査によれば、全世界のウェブサイトの実に98%がReadMe!より遅いそうです。
    画面の4分の3が広告や無意味な情報で埋め尽くされ、人々を機械の前に縛り付けて離さず、未知なるものと出会うための時間を奪い、機械無しで生きてゆくための能力を奪ってゆきます。
    この業界でこの仕事に携わる一人として、恥ずかしく、また悔しく思います。

    一方で、インターネットとReadMe!を通じて僕が得たものは計り知れません。
    25歳の僕は、顎で使われるだけのサラリーマンで、失うものを持たず少々鼻息の荒い、只の無知な青年でした。
    現在の僕は、インターネットに携わる仕事を自らの意思で選び、フリーランスとして仕事をしています。ときには苦しい日々もありますが、それはとても充実したものです。
    インターネットが無ければ、ReadMe!が無ければ、今の日々は決して無かったに違いありません。
    この場を借りて、かかわってきた全ての皆さんに御礼を申し上げます。
    ありがとうございます。

    残念ながら(そして喜ばしいことに)今、僕にはReadMe!よりも遥かに大切なものがいくつもあって、ReadMe!のために割く時間がありません。
    ですが僕はインターネットから離れるわけではありませんし、(たぶん)皆さんが目にするどこかで仕事をし、この現状を打ち砕くために戦っていると思います。
    この御挨拶は、決してお別れを言うために書いているわけではありません。

    僕にはReadMe!としてやり残したことがありますし、未練もあります。
    それは皆さんの知るReadMe!とは遠くかけ離れたものになるでしょうし、ReadMe!という名前すら持たないかもしれません。
    けれども、もし誰も現れなければ、50歳になっても60歳になっても、ふたたびこのキーを叩き、創り出してやろうと思っています。
    それまで、しばし、休みをください。

    それではまた、インターネットのどこかでお会いしましょう。

    休止にあたり運営者より御挨拶 (2008.2.29)ReadMe! JAPAN

     他の登録型ウェブ日記リンク集が閉鎖していく中で、『テキスト庵』は変わらず続いていた。 ウェブで流行している文体を登録させない、地味で牧歌的なサイトを集めていた『テキスト庵』は、それにより大きな動乱が発生せず続いていった。

    もちろんテキスト庵も永遠ではありません。いつの日か終わりが来るでしょう。ただ、テキスト庵は初期のころからずーーーーっと低空飛行だったため、ブログ時代の到来、アンテナ時代の到来、SNSの到来という大波を、のらりくらりとかわし、ここまで来ました。テキスト庵の「親」とも言え、2007年に閉鎖した「日記猿人→日記才人」が豪華客船だったのに対し、テキスト庵は水に浮かぶ枯葉程度の存在だったため、逆に大波の影響をかわせたのかもしれません。(影響は当然皆無ではありませんでしたが。)

    運営者からのそよ風 9.1.2009(テキスト庵)

     このサイトには「週刊アクセス庵」というランキング機能があった。 あくまで『テキスト庵』経由のアクセスランキングである。つまり『日記リンクス』と同じ集計方式。 「段落文体」である事を登録条件にしている『テキスト庵』はその条件が故に他のランキングとは一風違ったサイトが上位に名を連ねた。 代表的なサイトとして『われ思ふ ゆえに・・・』『プチ日記(OtearaiWeb コラム)』『活字中毒R。』『しゃべりたがる私のINPUT★OUTPUT』『江草乗の言いたい放題』『晴れの日もある』『見たこと聞いたこと』『幹事クリタのコーカイ日記』等が挙げられる。

     2009年12月12日、独自路線を走っていた『テキスト庵』はこれといった閉鎖の予兆を見せずサイト開設10周年を迎えた。 記念オフ会が東京と大阪で開かれ、管理人の【な】氏も参加した。

    6.2011年 登録型ウェブ日記リンク集の終焉

     『テキスト庵』もついには動乱が起き、閉鎖する。その理由は思いがけない物であった。

     2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震により東北の太平洋側は大きな被害を受けた。 【な】氏の妻であるavocadobanana氏は自身のブログで「ウェブチャリティ似顔絵プロジェクト」を企画する。 これは日本赤十字社に二千円以上寄付すれば、その人の似顔絵を作成するというものであった。無論、似顔絵をavocadobanana氏に描いてもらう為には、写真と住所・氏名を伝える必要がある。 avocadobanana氏は『テキスト庵』管理人の妻であるという(狭い世界の中であるが)知名度を利用して参加者を募った。

     2011年5月、avocadobanana氏はどうしてそのような事をしたのだろうか。彼女は飲み会の席で応募者から送られた写真やメール文を公開し、嘲笑のネタにした。 更には夫の【な】氏も同席していたにも関わらずavocadobanana氏を止めるどころか一緒になって嘲笑ったのである。 この様な事を行なえば応募者の怒りに触れるのは火を見るより明らか。 而して応募者の耳に入り、その一人『ring the bell』の管理人は抗議を行なった。

    さて、わたくしの人権が侵害されるようなことが起きた。大げさなとお思いだろうが、こんなボロ切れみたいなニンゲンでも守りたい名誉というものがあるのだ。

    具体的には、わたくしのごくごくプライベートな事象を、第三者が、複数の人の中でゴシップ的な扱いをしたというのである。わたくしは後日それを知らされ、ひどく打ちのめされた。吹聴したのはわたくしの個人情報を職業上知り得た人物とその配偶者ならびに友人であることが分かった。全く関係のない人を含む酒席で、わたくしのメールやブログの記事をおもしろおかしく読み上げる等の行為がなされたのだという。GW中の出来事である。

    わたくしの存在が目障りだからそんなことをしたのか、旅先の解放感による鬱憤晴らしなのか、目的はよくわからない。とにかく彼らはそのような行為をして、お酒の席を楽しんだのである。

    問題なのは発端となったわたくしの個人情報が、職業上知り得たことであるという事実だ。震災直後の3月下旬ネット上でチャリティプロジェクトの告知をしていたので、わたくしはそれに応募した。その際、写真を送ったのだが、そのことで知り得た個人情報や連絡通信のために使われた私信が酒席で公開(その場で読み上げる)されたのである。ここには書けないような無礼極まりない言動もあり、見ず知らずの人の前でわたくしは嘲笑の対象になったという。情けない。

    これのどこが善意のチャリティなのか。職業倫理というものはないのか。わたくしはじぶんの赤十字に募金した際の情報(名前住所やそれ以上のこと)まで教えてしまったことを、ひどく後悔している。もはや信用することができない。

    このエントリーを読んだ皆さんも、ぜひ気をつけてほしい。被災者の役に立ちたいとチャリティブロジェクトを立ち上げ、写真を送らせ、その写真を自らの好奇心を満たすために利用した人がいることを知ってほしい。その家族や友人もそれをやめさせるどころか、一緒になって酒席で盛り上がったということを知ってほしい。

    ring the bell - 職業倫理の欠如したチャリティプロジェクトring the bell

     2011年6月9日、avocadobanana氏はブログに謝罪文を載せた。当人同士のやり取りもしていたのだが、ブログの記事を見た感じでは上手くいっているようには見えなかった。 この事件は『テキスト庵』界隈で話題になった。テキスト庵界隈には『テキスト庵』参加者のゴシップネタを書くブログがあり、このサイト自体が『テキスト庵』に参加していた。 このサイトがこのネタに火をつけ薪を送り続けた。【な】氏は話題にしたサイトに弁明のコメントをしなければならない程に収拾がつかない状態だった。

     2011年7月7日、『テキスト庵』は閉鎖した。この騒動によって飲み会の集合写真が広まってしまい、サイトを続けると多くの人に迷惑が及ぶ事を理由に挙げた。

    お詫びとご挨拶。

    テキスト庵はとりあえず解散します。

    ここ数ヶ月で、運営者の軽率な言動から多くの方にご迷惑をおかけしてしまったことをここで改めてお詫びいたします。

    テキスト庵を続け、お叱りを受けることこそが禊だという認識を持っていましたが、テキスト庵以外の人を含む関係者の個人情報を集めて面白半分に晒すブログの登場で、状況は一変してしまいました。このままでは、テキスト庵内外の多くの方に迷惑が及ぶと判断し、関係者とも相談のうえ、テキスト庵を当面閉じることにいたしました。もともとのトラブルが個人情報の漏洩が原因だったのに、皮肉な結果となりました。これもひとえに運営者の浅慮ゆえのこと、大変申し訳なく思います。

    11年間、テキスト庵を好意的に支えてくださった方々には御礼のしようもありません。本当に楽しい時間でした。またいつかお会い出来る日が来ることを祈っています。

    重ね重ね、関係者各位にご迷惑をおかけしたことを陳謝すると同時に、支えてくださった皆様に深く御礼申し上げます。

    2011年7月7日 七夕
    テキスト庵運営者

    テキスト庵: TEXT Access Network

     『テキスト庵』は、登録型ウェブ日記リンク集最後の砦であっただけに、その終わりは『日記リンクス』『日記猿人』と共に語られ、多くの利用者から惜しまれた。 常連の一人である江草乗氏は「はてなアンテナ」にテキスト庵で更新報告されていたサイトを登録して、これまでテキスト庵経由で読んでいたサイトをこれからも同じように読めるようにした。これを『テキスト餡』と名付けた。

    *:この騒動について私が纏めたもの⇒「『テキスト庵』の閉鎖について振り返る

     こうして登録型ウェブ日記リンク集は終焉を迎えた。

    7.評論

     「インターネットによって、人々はその人の身分・権力に関係無く、世界の一人一人が世界中に情報を送り、受けとる事が出来る」

     これは実態としては言語の壁が立ち塞がり、後の世から考えれば多少大袈裟ではある。 それでも、言語の壁の中であればその通りであったし、日本においてはウェブ上の「個人サイト」という形で一旦実現された。 然し、それはウェブの世界の中での身分・権力を生み出す事にもなった。

     サイトを作り、更新する事を「世界に有益な情報を発信したい」という純粋な気持ちだけで行っていれば、人々の間に争いなど起きようか。 行為の裏には”注目して欲しい”という気持ちが有る。それは当然な事であるが、その心は争いの種になった。 そして人々は有益な情報だけではなく、もっと娯楽的なものもインターネットに、ウェブに求めていた。 日記という情報価値の低い、多少面白いだけの暇つぶし的読み物を人々が発信し、受け取ったのはその証左である。

     情報を発信するという行為は、二つの指標で優劣を付ける事が可能。一つはどれだけ質の高い情報を発信したか。一つはどれだけ広く発信出来たか。 『日記リンクス』は"どれだけ広く発信出来たか"の方でサイトの優劣を可視化するランキングシステムを実装した。それは競争という娯楽を提供し、参加サイト間で盛り上がり、「日記界」を形成するに至った。 然し、ランキングシステムを作れば、人々の心は煽られ、争いが起きるは必然。 それを実装した『日記リンクス』で争いが起きたのは必然。 そして、争いには娯楽性がある。人々が争いを求めていたといっても言い過ぎではあるまい。 津田氏は『日記リンクス』について「個人的な趣味で集めているポインタ集でしかない」といったが、それは学生を中心とした初期からの利用者には納得出来ても、利用者全員が納得出来るものではないだろう。 抑々個人的な趣味で集めているポインタ集だというのであれば、個人サイト同士で競わせるランキングシステムなどいらないのである。『日記リンクス』に娯楽性を取り入れ、争いを呼び込んだのは津田氏自身。 又、日記界の頂点に立てば、その座を狙う者が現れ、自身が攻撃される事態になるのは必然。頂点に立ったのが本人の意思ではなく、周りが勝手に担ぎ上げたとしても。

     ブロードバンドが普及した2000年から2003年、『ReadMe!JAPAN』のランキングは錚々たる顔触れであった。 他の登録型ウェブ日記リンク集が、あくまでリンク集であり、ランキングは追加機能という位置付けに対し、 『ReadMe!JAPAN』は最初からランキング争いに主軸を置き、サイト登録を「参戦」とする割り切りの良さが功を奏した。 インターネットによる情報発信の革命が個人サイトという形で一旦実現した時代の最盛期。 多様な個人サイトが有った時代。サイト管理人の中には、サイト運営で得た知名度を生かして実社会で成り上がっていく者もいた。 然し、時代は変わりつつあった。 ブログサービスとSNSの登場はインターネットを使った情報発信を”より簡単に””より早く”させた。 注目して欲しいという欲求を満たす事を”より簡単に””より早く”させた。態々個人サイトを作らなくてもよくなった。個人サイトを作る事が労力の割りに合わない時代になった。 2008年、『ReadMe!JAPAN』が終了した理由として、管理人は「運営に割く時間が取れなくなった」といっている。 然し、仮に時間が取れたとしても、個人サイトのランキングをメインコンテンツにしていた『ReadMe!JAPAN』は役割を終えていたともいえる。 もし続けていてもランキング上位陣は2ちゃんねるまとめサイトを中心とした「なんちゃって個人サイト」で占められるようになっていたであろう。

     そんな中、『テキスト庵』を中心にしたコミュニティは00年代にあっても90年代の雰囲気を残していた。 そんな『テキスト庵』も管理人夫妻が、周りから特別扱いされ、慢心があったとしか思えない出来事により、サイトを閉鎖する事になる。

     ばうわう氏は多大な労力を費やすサイトの更新作業について「多くの人が楽しみにしているものを届ける事が出来、自己顕示欲が満たされる」と語っている。 情報をどれだけ広く発信出来たかを可視化する「サイトのアクセス数」と「アクセス数を元にしたランキング」。 例えそれがサーバー同士が繋がる事によって生まれた世界上の機械的な変数値に過ぎなかったとしても、 その世界上では社会的成功であり、他人を出し抜いた結果であり、他人の羨望や嫉妬を集める手段となった。 それはサイト管理人の自己顕示欲、自己承認欲を満たす事になった。 そしてサイトのアクセス数はサイトの質とは必ずしも比例しない。いや、寧ろサイトの質を下げてでも人の心を惑わすような内容にした方がアクセス数は上がるともいえる。 他者を攻撃する事で伸し上がったばうわう氏の行為は後の世で言う炎上商法そのものである。

     自己承認欲・自己顕示欲を満たす為にインターネットを使って情報を発信する。 インターネット上で成り上がる為に他者を攻撃する。SNSの時代にいわれる様になった事象の萌芽は既にこの時代にあった。

    参考文献

    参考文献については別ページに『登録型ウェブ日記リンク集に関するリンク集』を作成した。これに載っている各ページが参考文献である。

    [ウェブ]Sakuraba『登録型ウェブ日記リンク集に関するリンク集』 佐倉葉ウェブ文化研究室の作業報告書、2020年


    その他特筆すべき物

    [ウェブ]永江孝規 『インターネットにおける自発的コミュニティの形成,特に Web 日記に関して』 Hacked by NAGAE Takanori (3ki3ro) 、1999年

    [ウェブ]引佐龍成 『日記才人裏年表』 D-Point 、2002年

    [書籍]iNTERNET magazine編集部 「iNTERNET magazine」1994年10月創刊号から1996年12月号まで、インプレス 1994~1996年 バックナンバーアーカイブ有り⇒『インターネットマガジン バックナンバーアーカイブ

    [書籍]金田善裕 『個人ホームページのカリスマ』 講談社、2002年

    [書籍]ばるぼら 「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」 翔泳社、2005年