商業サイトと個人サイトで構成されたウェブ草創期の歴史(1993年~2003年)
2008年1月4日公開、2025年5月10日全面改訂
▼目次
■序文
■前段
・JUNET、WIDEプロジェクト、日本最初のホームページ
■1993年~1994年(平成5年~6年) 個人サイトの登場
・Mosaic、Netscape、Internet Explorer、NTTがWWWサーバを立ち上げる、個人サイトの登場、検索サイトの登場
■1995年(平成7年) インターネット元年
・阪神・淡路大震災、大手家電メーカーがインターネット接続サービス参入、テレホーダイ、インターネット検索サービス続々開始、個人ニュースサイト界と日記界の発生
■1996年(平成8年) 日記界の動乱
・IWE'96、『Yahoo! JAPAN』サービス開始、SNSの原型登場、日記界の動乱、ウェブとオウム真理教、『あやしいわーるど』の登場
■1997年(平成9年) アングラな世界の中で
・私書箱型掲示板の登場、酒鬼薔薇聖斗事件、『あめぞうリンク』開設、原始テキストサイトの誕生、アングラ
■1998年(平成10年) フォント弄りの広まり
・フォント弄りの広まり、ドクター・キリコ事件
■1999年(平成11年) あめぞうの終わりと2ちゃんねるの始まり
・東芝サポート事件、ADSL始まる、あめぞうウイルス、『2ちゃんねる』の開設
■2000年(平成12年) モナー誕生
・2ch系AAキャラクターの誕生、ロム配布サイトの逮捕、『Google』日本語版サービス開始、ウェブアニメーションの可能性
■2001年(平成13年) テキストサイトブーム
・テキストサイトブーム、偽春菜騒動、吉野家コピペ誕生、ブロードバンドの普及加速、2ちゃんねるスレ紹介サイトの登場、WinMX利用者逮捕、田代祭
■2002年(平成14年) 新時代の予感
・ムネオハウス、Winnyの登場、タカラギコ騒動、ブログ騒動、紅白FLASH合戦
■2003年(平成15年) FLASH黄金時代
・ブログサービスが始まる、Winny2の登場、Winny利用者の逮捕、FLASH黄金時代、ブロゴスフィアの形成
■年表
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1.序文
この文は、日本のウェブに構築された世界。商業サイト・個人サイトの発生やウェブで起きた出来事、ウェブの文化(ネット文化)について特定分野に絞らず記載したものである。
当サイトでは分野別に詳細を記載している文が既にある。基本的には下記の文が当サイトのメインコンテンツであるから、詳細は下記リンク先を確認してほしい。
【登録型ウェブ日記リンク集の動乱】
【個人ニュースサイト史】
【テキストサイトの歴史】
【Flash動画史】
この文ではそれらに当てはまらない分野についても記載して全体を俯瞰、情報を補完するとともに、
商業サイトと個人サイトを対等に記載する事で、日本のウェブ草創期で特徴となっていた「商業サイトで足りないものを個人サイトが補完する」関係を示している。
インターネットは地球を小さくし、世界を一つにする。インターネットは人の身分・所属・財産・権力に関係なく、誰もが世界へ情報を発信し、受け取る事が出来る社会を実現する。 そんな理想論がいわれていた1990年代。日本に於いてはウェブ上に作られた商業サイトと個人が制作した個人サイトが両輪という形で、その社会に向けてある程度進んでいった。
前段
1958年、アメリカでARPA(Advanced Research Projects Agency、国防総省高等研究計画局)が設立された。このARPAの資金提供よって開発され、
世界で初めて運用されたパケット通信コンピュータネットワークが「ARPANET」である。
1961年、核攻撃下でも生き残りが可能なネットワークの構築の考案を依頼されたランド研究所(アメリカ空軍のシンクタンク)のPaul Baranは、研究報告書「On Distributed Communications Networks(分散型コミュニケーションネットワーク)」をARPAに提出。 集中型、分散型、分散ネットワーク型を比較し、通信形態には分散ネットワークが適切であることを報告した。
■「集中型、分散型、分散ネットワーク型」(On Distributed Communications Networksより):https://www.rand.org/content/dam/rand/pubs/papers/2005/P2626.pdf
1966年、Lawrence G. RobertsはARPANETの基本仕様を纏めた。「負荷共有」「メッセージサービス」「情報の共有」「プログラム共有」「遠隔ログイン」である。
1968年、イギリス国立物理学研究所のDonald Watts Daviesは、エディンバラで開催された会議でパケット交換のアイデアを発表した。Lawrence G. RobertsはDonald Watts Daviesと面会した。このアイデアがARPANETに使われた。
ARPAが資金を提供し、1969年にARPANETが発足した。世界で初めて運用されたパケット通信コンピュータネットワークであり、インターネットの起源ともいわれる。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所のコンピュータ接続から始まり、1969年中にはカリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学とも接続した。
接続するコンピュータが増えていき、1977年には111台のコンピュータがARPANETへ接続した。
1979年、研究者ネットワークとして「USENET」が開始。
1981年、大学や民間のコンピュータ研究グループ用のネットワークとして「CSNET」が開始。
1986年にはスーパーコンピュータの共同利用推進のために「NFSNET」が開始。ARPANETはNFSNETに吸収された。
補足:「インターネットは軍事目的で開発されたのか。そうでないのか」という議論がある。 そのポイントの一つは、Paul Baranの研究報告をARPANETの源流と位置付けるのか、位置付けないのかということ。
日本では1984年10月にJapan University NETwork「JUNET」が始まった。日本におけるインターネットの起源といわれる。慶應義塾大学、東京工業大学、東京大学をUUCP方式で結んだことで始まったネットワーク。公衆電話回線を用いた。
そのきっかけは慶應大の若き研究者である村井純が東工大に籍を移した事。
村井は慶應大のコンピュータのなかに沢山のデータを残しており、そのデータが必要になる度に村井や後輩達は東工大と慶應大を往復していた。
電話回線を使って東工大と慶應大のコンピュータ間データ送受信が出来ないだろうか。どちらのコンピュータもUNIX搭載機であった。UNIXマシン同士でデータ転送を行うには通信プロトコル「UUCP」がある。
こうして実験ネットワークJUNETが始まった。
JUNETの機能の中で主なものは、バケツリレー方式での電子メール・ネットニュース。 電気通信事業法の施工、所謂「通信の自由化」を待って、1985年の情報処理学会にてJUNETを正式に発表した。
JUNETは1985年にアメリカのUSENET、1986年にCSNETと繋がった。JUNETの通信量は右肩上がりに増え、電話代が上がった。
電子メールのアドレスの書き方を間違えたせいで国際電話の電話代が月300万円になった。
従って専用線の導入が必要という結論になったのだが、それには金がかかる。専用線を引くには企業から資金を集めるしかない。村井は共同研究費という形で企業から資金を集めた。
1988年7月6日、東大と東工大のコンピュータを専用線で接続、慶應大と東大のコンピュータを19日に接続した。通信方式はTCP/IPを用い、速度は64kbpsであった。
この共同研究はWidely Integrated Distributed Environment Project 「WIDEプロジェクト」と名付けられる。
第2章
WIDEプロジェクトの概要
WIDE(Widely Integrated Distributed Environment)の目的は、局所的な分散環境とそれらの接続という階層的な構造に基づいた大規模な分散環境を構築するための技術を実証的に確立することにある。 そのために、実際に運営されている複数のローカルエリアネットワーク間を、分散環境を構築するために充分な速度の回線を用いて接続し、その上に実用に耐える大規模広域分散環境のプロトタイプの構築を開始した。この環境の構築に際して、ネットワーク間パケットのための経路制御機能、ゲートウェイにおける制御機能、広域分散環境の管理機能と応用機能に関する研究と研究成果の実証を行う。
2.1 研究期間
研究活動は当面4年間を予定している。この期間を2つのフェーズに分け、前半と後半をそれぞれ次のような方針で活動を行っている。実際の活動は1988年4月から開始している。
フェーズⅠ(1988年4月から1990年3月)
実験基盤の確立とゲートウェイ機能の開発、大規模分散型オペレーティングシステムの構造に関する設計、応用技術のプロトタイプの開発と実験などを目的とする。
フェーズⅡ(1990年4月から1992年3月)
実験基盤の発展と運用の技術確立、大規模分散環境のためのオペレーティングシステム技術、ゲートウェイ技術、応用技術の開発と実験などを行ない、その技術移転を目的とする。
1988-1989年度 研究報告書 (WIDE PROJECT):http://www.wide.ad.jp/project/document/reports/pdf1989/index.htm
民間企業から資金提供に成功したWIDEプロジェクト。 共同研究として資金提供をしてもらったのだから民間企業とJUNETを繋げなければならない。
然し国立である東大と民間企業を直接繋げる事は難しかったため、接続拠点を岩波書店に設置し、そこを介すようにした。WIDEプロジェクトに参加する組織が増えていくと、各地に接続拠点を開設。
・1989年8月:WNOC東京:岩波書店
・1989年11月:WNOC京都:ASTEM
・1990年3月:WNOC大阪:千里国際情報事業財団
・1990年4月:WNOC-SFC:慶應大湘南藤沢キャンパス
・1990年12月:WNOC福岡:システムソフト
・1991年8月:WNOC仙台:AIC
・1992年7月:WNOC広島:広島大
こうしてWIDE網が広がっていった。日米間接続の専用線はハワイ大学のPACCOMプロジェクトによって実現した。
1989年11月12日、CERN(欧州原子核研究機構)のTim Berners-LeeはWorldWideWebの提案書「WorldWideWeb: Proposal for a HyperText Project」を発表。
12月、CERNにあったコンピュータ上に、世界初のWWWサーバ、世界初のウェブブラウザを構築した。
1991年8月6日、Tim Berners-Leeは「WorldWideWeb - Executive Summary」を「alt.hypertext」ニュースグループに投稿。 同日、世界最初のウェブサイト「http://info.cern.ch/」を立ち上げた。
■『Tim’s home page』
日本では1992年2月にNTT基礎研究所の奥乃博が日本国憲法や社内情報等をHTML化。
1992年9月30日、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の森田洋平がTim Berners-Leeと出会い、その日中にHTMLファイルを作成。KEKのサーバーに置いた。
これが「日本最初のホームページ」になる。
WWWの概念は1989年にTim Berners-Lee博士によって提唱され、スイス・ジュネーブ のCERN研究所でプログラムの開発が始まりました。1991年にはプログラムがほぼ 完成し、USENETというインターネット上のニュースグループで発表されました。
私が研究会でWWWのことを初めて耳にしたのはちょうどこのころです。当時は まだWWWのサーバーも高エネルギー物理の研究所に限られていて、ごく一部の 情報科学系の研究者がWWWの可能性に注目し始めていました。
1992年9月になって、ある国際会議がフランスで開かれ、その会議に出席した私は その後、別の会議に出るためにCERN研究所に立ち寄りました。そこでTim Berners-Lee博士と出会い、CERNのカフェテリアで昼食を食べながら、WWWの ことを聞いてみました。 この席上で博士から「情報はネットワーク上でみんなと 共有して、はじめて価値が生まれる。WWWはハイパーテキストのリンクで世界中の 情報をお互いに結びつけることを可能にする。KEKもぜひWWWサーバーを立ちあげて 欲しい。」と依頼されました。 このときの博士の情熱にあふれた瞳を私は今でも 忘れることができません。
博士の情熱的な説得に感化された私は昼食の後、さっそくCERNの端末室に出向き、ネットワーク経由でKEKにログインして、はじめてのHTMLファイルを作り、サーバーの上に置きました。それから博士にそのアドレスを電子メールで 送り、CERNのリンク集のページにKEKを加えてもらいました。(当時のメモ によれば1992年9月30日)
この時のサーバーはHTTPではなくて、FTPを使っていましたが、これが日本で 最初にWWWの網の目にリンクされたWWWサイトとなったのです。当時、CERNのTim Berners-Lee 博士のページに登録されたWWWサーバーの数は世界中に10数台ぐらいだったと記憶しています。
ネットワークとの出会い (茨城県インターネットフォーラム):https://www.ibarakiken.gr.jp/www/morita/morita3.html
■『KEK Information page』(日本最初のホームページ。コピーされたものがhttps://www.ibarakiken.gr.jp/www/index.htmlにある)
1992年11月、日本イーエヌエス・エイティアンドティ(AT&T Jens)が日本初の商用インターネット接続サービス「Spin」を開始した。UUCP接続である。
1992年12月3日、WIDEプロジェクトのメンバーが中心となり、商用インターネット接続サービス会社「インターネットイニシアティブ(IIJ)」が設立された。
商用化に対する要求と議論は日本でも熱を帯びてきており,WIDEプロジェクトを中心としてみんなで少しずつお金を出して商用のサービスを作ろうという働きかけをやっていた. まず,WIDEで動かしているインターネット運用のモデルが商用化の可能性があるのかを検証するために,郵政省の下でいろいろな専門家に入って頂いて研究会を開いた. WIDEで運用しているインターネットの需要が大きくなっているが,商用化としてスタートできるかどうかを検討してきたわけである.ところがその結論は商用化は難しいだろうということだった. WIDEでの実績はあくまで研究活動としての運用であり,そこで予測される伸び率は,共同研究の仲間が増えてくるに従って増加するのみにとどまり,これを顧客として換算していった場合には,営業活動その他の状況が全然異なるため,ビジネスとしての採算にはつながらないというもので,結論は余りに悲観的なものだった. それでも,筆者らは商用化は絶対に必要になってくることを主張し続けていた.そうしないとWIDEプロジェクト自体が運用活動に時間をとられすぎ,研究活動として続かなくなると考えており,とにかく商用化を急務として進めたかった.
そこでスタートしたのがインターネットイニシアティブ(IIJ)社である.IIJはWIDEのボードメンバーが少しずつ出資し,当時アスキーにいた深瀬氏に社長をお願いしてスタートした.AT&Tを基盤としたSPINというサービスも同じ時期に商用化した.この二つが日本で最初の商用インターネットサービスの会社である.
6. 学術研究ネットワークと商用ネットワーク (電子情報通信学会):https://www.ieice.org/jpn/books/kaishikiji/200303/200303-6.html
地球はもっとすばらしい星になる。
電話や飛行機が地球を小さくしたように、インターネットもまた地球を小さくし、世界をひとつにしようとしています。
コンピューターネットワークを通して、だれもが世界のだれとでも情報のやりとりをできるようになりました。それは、その人の身分、財産、権力、会社の大小に関係ありません。世界のひとりひとりが自由に情報を送り、受けとることができるものです。 インターネットは、いままでにない自由なコミュニケーションのネットワークを実現しつつあります。
インターネットの夢を考えるたびに、私たちは、AT&T草創期のA.G.Bell(アレキサンダー・グラハム・ベル)を思い出します。 19世紀末に電話を発明したA.G.Bellはたしかに天才です。しかし、彼を電話発明へと導いたのは、天才の力だけではありません。耳の不自由だった母と妻への献身の力を忘れることはできません。 ベルの後継者たちは、A.G.Bellの夢をさらに前進させました。電話が必要な人は、だれでも、低料金で電話をつかえる?ユニバーサル・テレフォン・サービス?この思想が、電話ネットワークを爆発的に発展させる源になります。
電話に始まるインターネット。私たちはインターネット時代になっても電話の精神を忘れません。お客様に満足していただける仕事、社会の役に立つ仕事、これが私たちのやりがいのある仕事です。
インターネットで地球はもっとすばらしい星になります。
AT&T Story(AT&T Jens):http://www.attjens.co.jp/jens/jens.html
1993年~1994年(平成5年~6年)
個人サイトの登場
▼主な出来事
NCSA MosaicとNetscapeとInternet Explorerの登場、 NTTがWWWサーバを立ち上げる、 インターネット接続サービスが次々に始まる、 『内閣総理大臣官邸』開設、 個人サイトの登場、 インターネットマガジンの創刊、 『千里眼』と『NTT DIRECTORY』の登場
◆NCSA MosaicとNetscapeとInternet Explorerの登場
1993年3月14日、アメリカで「NCSA Mosaic」が登場した。これはイリノイ大学の国立スーパーコンピュータ応用研究所(NCSA)のMarc Andreessenを中心としたチームが開発した画期的なウェブブラウザである。
何が画期的であったのか。
それはIMGタグを備えていたことであった。WorldWideWebは文字と画像を一つの画面に表示する事が出来ない。
Mosaicは同一のウインドウにテキストと画像を一緒に表示させることが可能な「絵の出るWorldWideWeb」である。
Mosaicは瞬く間に全世界に広まり、開発者はインターネットでの反響を即座に取り入れ、改良を進めた。
すると、イリノイ大学はMosaicの開発を一元化し、色んな人がMosaicを管理しようとし始めた。
これに嫌気がさしたMarc Andreessen達はJames Clarkに誘われ、Netscape Communicationsを立ち上げ。
1994年10月に新たなブラウザ「Netscape Navigator」を開発した。
開発費に日本円換算で20億かかったが、これを無料で配布。法人で使う場合は有料として大成功を収めた。
Netscapeは発表から一年半で3800万本普及した。
MicrosoftはNetscapeのライセンスを受けようとしたが失敗。MicrosoftはNCSA Mosaicを元に「Internet Explorer」を開発した。
■「NCSA Mosaic」(ブラウザ)
■「Netscape Navigator」(ブラウザ)
■「Internet Explorer」(ブラウザ)
◆NTTがWWWサーバを立ち上げる
1993年10月7日、NTTはWWWサーバを立ち上げ、『NTT』のサイトを公開した。なおこの時は英語版であり、日本語版のページは12月に公開している。 コンテンツとして日本のWWWサーバ地図、Internetタウンページ等があった。奥乃が作成した日本国憲法のHTMLはここで公開された。 日本語版のページとともに公開された「日本の新着情報」はURL登録型リンク集であり、当時の最重要ページの一つといっていい。 登録フォームにURL・サイト名・キーワード・管理人の所属・氏名を入れると登録される仕組みであり、”サイトを立ち上げたらまずここに登録すべき”といえる存在。 つまり「日本の新着情報」に載っている情報は日本のウェブ社会拡大の歴史そのものといえる。 『NTT』は日本初のポータルサイトとして機能した。
■『NTT』:http://www.ntt.jp(http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/exhibit/history/pdf/3F_japan_window.pdf)
■「日本の新着情報」:http://www.ntt.co.jp/WHATSNEW/index-j.html
◆インターネット接続サービスが次々に始まる
前年、AT&T JensやIIJが商用インターネットサービスプロバイダとしてサービスを開始していた。
AT&T Jensは1993年7月にIP接続サービス「InterSpin」を開始した。
さて、日本初の個人向けインターネットサービスを始めたのは電気・通信メーカではなく、英会話学校であった。
戦後すぐの1945年11月に開校した日米会話学院は国際交流の為のBBSを1984年に開始していた。
1993年、Roger Boisvertは東京でインターネットサービスプロバイダ、インターコン・インターナショナル(IIKK)を創業した。
1993年10月、日米会話学院はIIKKの最初の顧客になり、インターネット接続サービス「TWICS」を開始した。マニュアル、メニューは英語であった。
1993年11月、IIJがインターネット接続サービスを開始。この頃はまだ特別第二種電気通信事業者の免許が取得出来ておらず、国内はTCP/IP接続だが海外との接続は米UUNETのサーバーにUUCPで接続していた。1994年2月に免許取得し、本格的にインターネット接続サービスを開始した。
1994年6月1日、富士通が「InfoWeb」のサービスを開始した。
同月アトソンが「ASAHIネット」のサービスを開始。アトソンはパソコン通信「ASAHIパソコンネット」を運営している会社で、朝日新聞社とトランスコスモスの出資である。
10月1日にはラピドシステムズが「リムネット」のサービスを開始した。
1994年9月にサービスを開始した個人向け・低料金なサービスプロバイダ「ベッコアメ・インターネット」は東芝の尾崎憲一が在籍中に創業。
1994年7月25日~29日に幕張メッセで開かれたインターネットサービスの展示会「NetWorld+Interop 94' Tokyo」。
ここに行った尾崎がIIJの料金の高さを見て創業を決意。その日中にインターネットマガジンへ電話し、創刊号に広告を出した。
9月にインターネット接続サービスを開始した。(会社の設立としては12月)
◆『内閣総理大臣官邸』開設
1994年8月22日、『内閣総理大臣官邸ホームページ』が開設した。現:『首相官邸ホームページ』。
■『内閣総理大臣官邸ホームページ』:http://www.kantei.go.jp
◆個人サイトの登場
1990年後半から00年代まで、日本のウェブ社会の中心には商業サイトとともに個人サイトがあった。
ウェブ日記(ハイパーダイアリー)の流行からテキストサイトブーム・FLASH黄金時代・個人ニュースサイトの活躍と、個人サイトがウェブを引っ張っていったのである。
最初の個人サイトとして挙げられるのは1993年に伊藤穣一が開設した『富ヶ谷』。
これは米のプロバイダ「インターコム」が日本でのインターネット接続テストと必要機材の保管を伊藤に相談。伊藤の自宅に専用回線が引かれたのがきっかけ。
早い段階で個人サイトを立ち上げ、後に一番有名になった人は東京大学の堀江貴文。
1994年に堀江貴文が作った競馬のサイト『ダービースクエア』は、
参加者が1000人を越えていた競馬予想大会「Derby Square Cup」をはじめ、コラムや競馬関連サイトのリンク集等がコンテンツ。
この『ダービースクエア』の運営が「オン・ザ・エッヂ(Livin' on the EDGE)」となり「ライブドア」に発展する。
サイトデザインは有馬あきこ。オン・ザ・エッヂ立ち上げの際に資金提供したのは有馬の父である。
堀江貴文のその後の活躍は言うに及ばず。有馬あきこ はウェブデザイナーという言葉が無い時代からのウェブデザイナー。
オン・ザ・エッヂ在籍時は大手会社のウェブデザインを担当し、独立後は携帯ゲームの企画、鉄道駅擬人化企画等で活躍したが、早逝した。
各大学のサーバーがインターネットへ接続されていったのであるが、大学のサーバー内には研究室のページは勿論の事、研究室に在籍する学生個人のページがあった。
学生のページでは、その内容が勉学や研究に留まらず、趣味や興味について書いている所もあった。それが事実上の個人サイト祖になる。
特に重要なのは次の4サイト。
千葉大学の寺本秀雄が書いたビーム文体のサイト『Pickles Spinn Communications』 はピクスピとも呼ばれた。
埼玉大学の島田繁広が'90ハイテクヒッピーを目指した『ShigeP's Home Page』。
山梨大学のHIROSHIGE Takujiがリーガルドラッグを体を張って試したClub HALが好評な『HIROSHIGE Takuji's Home Page』。
九州工業大学の一瀬大志、児玉修一、堀江信助がテクノやストリートの情報を発信。デジタルビスケットというE-ZINE形式のページも作成した『JapanEdge』。
この4サイトについて、須藤玲司著の「インターネットほめぱげ探検BOOK」は「フロンティアの荒野の中でもひときわ輝いていた」と評した。
なお、『JapanEdge』の一瀬と児玉は1995年の夏に米国西海岸をヒッチハイク。この旅の先進的な所は、小型ノートPCとデジカメを持っていき、
旅の途中で日本に向けてインターネットを使ってテキストや写真のデータを送付し、情報を発信していった事にある。
インターネットに繋がるパソコンを探し出すだけでも大変な時代。その様子は富士通のwebマガジン「teleparc」に掲載され、更にはハイパーヒッチハイカーズとして書籍化された。
他に代表的なサイトとして、
東北大学の樋口隆司がウェブ上にあるソフトウェアを紹介した『秋保窓』。『秋保窓』は大学のサーバーを追われ、インプレスのサーバーに移り、『窓の杜』となった。
東北大学の水木敬明が作った投票ページ『なんでもランキング』、
埼玉大学の松田浩一がまずい食べ物について書いた「駄食倶楽部」とカップラーメンレビュー「カップ天国」の『Koichi Matsuda's Home page』、
埼玉大学の黒田昌利が人がやらないことをやるをモットーにコミケの買い物レポートを書いた『Kuroda Masatoshi』等が挙げられる。
■『ダービースクエア』:http://www.k-ba.com/
■『JapanEdge』:http://www.ces.kyutech.ac.jp/student/JapanEdge/index.html
■『Koichi Matsuda's Home page』:http://www.ke.ics.saitama-u.ac.jp/matsuda/
◆インターネットマガジンの創刊
「インターネットマガジン(iNTERNET magazine)」は1994年9月に創刊したインターネット専門誌である。発行はインプレス。
インプレスはアスキーの塚本慶一郎が設立し、1993年3月にDOS/V POWER REPORTを創刊していた。
月刊アスキーのインターネット版を目指したインターネットマガジンは、当時一般の人には分かり辛いものであったインターネットを分かり易く伝えた。
ウェブ文化の観点でいえば、INTERNET YELLOWPAGESというコーナーが参考資料として貴重。
役立つ或いは面白い・興味深いサイトを商業サイトから個人サイトまで毎月紹介していた。また、バックナンバーが創刊号から休刊する136号までウェブで公開されている点も重要である。
インターネットマガジンは1990年代当時のウェブの空気を知るには一番の資料といえる。
◆『千里眼』と『NTT DIRECTORY』の登場
1994年11月に登場した『Searcher in Waseda』は
早稲田大学の田村健人が作成したWWW検索システム。日本初のロボット型検索エンジンであり、田村が集めたjpドメインのデータを利用している。後に『千里眼』と命名された。
1997年3月、『千里眼』は早稲田大学からアスキーに移転した。1999年3月31日、サービス終了。
1994年12月に登場した『NTT DIRECTORY』はNTT研究所が開発したWWW検索システム。ロボット型検索エンジンTITANとテキスト検索エンジンInfoBeeで成り立っている。
2000年2月からは『OCNnavi』となった。2001年6月30日、サービス終了。
■『千里眼』:http://senrigan.ascii.co.jp/
■『NTT DIRECTORY』:http://navi.ntt.co.jp/home.html
1995年(平成7年)
インターネット元年
▼主な出来事
阪神・淡路大震災、 大手家電メーカーによるインターネット接続サービス参入とテレホーダイの開始、 開始したインターネット検索サービス、 新聞社のサイトが開設する、 個人ニュースサイトの発生、 日記リンクスの登場と日記界の発生、 雑文サイトの発生、 Windows95(日本語版)発売
◆阪神・淡路大震災
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部地震が発生した。大都市の直下を震源とする大地震で震度7を記録した。この地震による震災は阪神・淡路大震災と名付けられた。
この震災からの復旧に当たり、インターネットを活用する試みが研究者・技術者・ボランティアで行われた。
回線は地震により切断されたものの翌日から復旧していき、
神戸市外国語大学と神戸市広報課は復旧したインターネットを活用。サイトを通して被災地からの積極的な情報発信を行った。
その中でも特筆すべきは神戸市内の被害状況を写真で公開した事である。また、安否情報が複数のサイトで公開された。
ボランティア活動でもインターネット使う動きがあった。
ボランティアが避難所の現在情報を収集しウェブへ投稿。情報の共有化と物資配布への活用を試みた。避難所へのパソコン設置も行った。
このような活動は情報ボランティアといった。
勿論課題も多くあった。復旧活動を行った神戸市外国語大学の芝勝徳はインターネットについて
「一旦繋がってしまえば、 非常に安定した通信経路を確保出来た」「外に向かって情報発信出来た」としつつも、
「外の情報を有効に取り込み、避難されてる方に直接届ける点については機能しなかった」
「インターネットによる情報のやりとりは、主に被災地と外部にいるこの災害に関心のある人々の間においてなされたものであり、 直接被災地内の被害にあった人にはなんの関係もなかった」と評した。
情報ボランティアも成果を挙げた部分と挙がらなかった部分があった。
まだ家庭にパソコンが普及しておらず、インターネットという言葉を知らない人も多かった時代。インターネットを使える人は極少数。
阪神・淡路大震災において、その被害者救援にインターネットがした貢献は小さい。だが、可能性は見せた。
ニュースステーションでは「もう一つの生命線 インターネットは生きていた」として報道した。
阪神・淡路大震災はインターネットが日本で注目を浴びるきっかけの一つになった。
*:詳細はこちらを参照⇒「阪神大震災とインターネット」
■『神戸市外国語大学』の「地震災害情報の発信について」:http://www.kobe-cufs.ac.jp/kobe-city/whatsnew/disaster-jp.html
◆大手家電メーカーによるインターネット接続サービス参入とテレホーダイの開始
大手家電メーカーがインターネット接続サービスに続々参入した。富士通は前年に参入していたが、1995年は2月1日にNECが「mesh」のサービスを開始。
11月には三洋電機が「SANNET」、12月1日には松下電器が「hi-ho」のサービスを開始した。大手家電メーカー以外では11月にボイスメディアが「インターキュー」のサービスを開始した。
さて、一般家庭へのインターネット普及という意味で大きな役割を果たしたサービスが1995年8月22日にNTTが始めた「テレホーダイ」である。
インターネットに接続している間はアクセスポイントまでの電話代がかかってしまう。
テレホーダイは電話番号指定型の電話回線定額制サービスであり、予め指定した2つまでの電話番号に対して23時~8時の間、電話料金が定額になった。
これにより、夜間であれば電話代に怯えることなくインターネットを利用出来るようになった。
そして、テレホーダイの契約者は23時になった瞬間に一斉にネットに繋げる事になる為、インターネットのトラフィックが急激に増え、
弱小プロパイダの場合は23時の瞬間に回線が埋まり繋がらなくなってしまう事象が発生した。
◆開始したインターネット検索サービス
前年、検索サービス『Searcher in Waseda(千里眼)』『NTT DIRECTORY』が登場したが、この年は大手家電メーカを中心に様々な検索サービスが登場した。
やがて海外からやって来た検索サービスとの戦いに敗れ、淘汰されていくのだが。
1995年5月にサービスを開始した『CSJインデックス』はサイバースペースジャパンが運営する検索サービス。後に『iNETGuide』となる。
この年は大手家電メーカーが検索サービスに続々参入。
8月はNECが運営する『NETPLAZA』が登場、9月には富士通が運営する『InfoNavigator』、10月には日立国際ビジネスが運営する『Hole-in-One』とソニーが運営する『WAVE Search』と大手家電メーカーの検索サービス開始が続いた。
『WAVE Search』は『日本の新着情報』のデータを元にしている。
個人で運営する検索サービスも存在した。
『J.O.Y - Japanese Open Yellowpage』は5月24日に登場し、「インターネットの時代は個人の時代」をスローガンにした個人サイト特化型。
米『Yahoo』の名前を捩った『Yahho』は6月。豊橋技術科学大学の近多泰宏が開発したディレクトリ型検索エンジンである。「YAsuhiro chikata Hyper HOtlist」。
『ODIN』は東京大学の原田昌紀が開発。原田は後にGoogleの日本人開発者第1号となる。
なお、
『WAVE Search』は1998年1月31日にサービス終了。
『Hole-in-One』は1998年7月27日に『Excite』に吸収。
『InfoNavigator』は2002年6月24日にサービス終了。『NETPLAZA』も2002年頃サービス終了となり、大手家電メーカーの検索サービスは2002年までに姿を消した。
『Yahho』は1997年9月1日にサーバーが高桑美術印刷に変わり、『うぇいぶなび』となった後の2001年4月21日にサービス終了。
そんな中、個人運営の『J.O.Y』だけは事実上の死に体ながらも「個人ホームページはオワコンかもしれないが、墓標としてしばらく続ける」とし、2017年までサイトを更新し続けていた。
その『J.O.Y』も2018年に閉鎖した。
■『CSJインデックス』:http://www.csj.co.jp/csjindex/
■『NETPLAZA』:http://netplaza.biglobe.ne.jp/
■『InfoNavigator』:http://infonavi.infoweb.or.jp/index.html
■『Hole-in-One』:http://hole-in-one.com/
■『WAVE Search』:http://www1.sony.co.jp/InfoPlaza/WAVESearch/
■『J.O.Y - Japanese Open Yellowpage』:http://joyjoy.com/
■『Yahho』http://yahho.ita.tutkie.tut.ac.jp/
■『ODIN』http://kichijiro.c.u-tokyo.ac.jp/odin/
◆新聞社のサイトが開設する
ウェブ普及前、お茶の間に生活情報を届けていたのはテレビ・ラジオ・そして新聞である。ウェブの黎明期は文字によるコンテンツが主であったから、ウェブの影響を真っ先に受けたのは新聞になる。
1995年6月16日、読売新聞は『YOMIURI ONLINE』を開設。8月1日に毎日新聞が『Jam Jam』を開設。
8月10日には朝日新聞が『asahi.com』を開設した。
■『YOMIURI ONLINE』:http://www3.yomiuri.co.jp/
■『Jam Jam』:http://www.mainichi.co.jp/
■『asahi.com』:http://www.asahi.com/
◆個人ニュースサイトの発生
個人サイトのうち、とあるカテゴリについてサイト管理人の視点で情報を収集し、纏め、基本的に毎日発信するサイトの事を「個人ニュースサイト」といった。
個人ニュースサイトは90年代から00年代まで、大手であれば個人サイトでありながらも商業ニュースサイトに負けないアクセス数と存在感を持った。
その源流は前年に開設した『秋保窓』と1995年に開設した『秋葉原マップ』や『Macintoshtree』等のサイト達である。
1995年3月27日に開設した『秋葉原マップ』は、インプレスのサーバーにある石橋文建の個人サイトである。
石橋は秋葉原の店舗情報と地図が入っていたWindows用フリーソフトを制作しており、『秋葉原マップ』はこれをウェブ化したものである。
石橋が「DOS/Vパワーレポート」編集部の工藤に誘われてインプレスへ遊びに行ったのがきっかけだった。
石橋は毎週土曜に秋葉原に行ってお買い得情報や製品ニュースを探し、『秋葉原マップ』にある「アキバHotLine!」のページで公開した。
これが後にインプレスの一コンテンツとなり、現在の『AKIBA PC Hotline!』となった。
1995年8月1日に開設した『Macintoshtree』はMacintoshに関する新しい情報を伝えるサイト。
Macintoshの情報は当時、海外のサイトに多かった為、その情報を伝えるサイトに需要があり、『Macintoshtree』の他にも幾つか発生した。
■『アキバHotLine!』:http://impress.co.jp/akibamap/hotline/index.html
■『Macintoshtree』:http://www.sannet.or.jp/mactree/
*:詳細はこちらを参照⇒「個人ニュースサイトの誕生」
◆日記リンクスの登場と日記界の発生
個人サイトには、サイトのメインコンテンツ以外にも日々の雑記・日記のページを持っている場合があった。
それは「ウェブ日記」、或いは「ハイパーダイアリー」と呼ばれた。
1995年5月18日、豊橋技術科学大学の津田優は自身のサイト『Masaru Tsuda's Home Page』内に
日記ページのリンク集「日記なページのリスト」を作成した。
このリンク集には新規登録機能が有り、サイトを持っている人が自分でリンク集にサイトを追加出来た。
リンク集に価値があった時代。「日記なページのリスト」はサイト管理人にも閲覧者にも重宝された。
この登録型ウェブ日記リンク集は『日記リンクス』と呼ばれた。
1995年7月11日、『日記リンクス』はランキング機能を実装した。登録サイトを『日記リンクス』からのアクセス数により順位付けしたのである。
ランキングという娯楽機能まで追加された『日記リンクス』は更なる人気を獲得し、最終的に600以上のサイトが登録。
『日記リンクス』を中心とした各個人サイトへの導線が出来あがっていき、ここに「日記界」が発生した。
代表的な登録サイト(またはサイト内の日記ページ)として、四天王と呼ばれた『駄文でポン!』『すちゃらか日記』『きちく系日記』『不連続日記事件』。
他には『精進日記』『をたく日記』『狂乱西葛西日記』『オフピーク日記』等が挙げられる。
ウェブ上の日記に「ハイパーダイアリー」と名付けたのは『をたく日記』の大森英司である。
そして後に大騒ぎを起こす『とほほ日記』もそこにあった。
なお、『オフピーク日記』はと『三ツ矢浩之のホームページ』の一コンテンツであり、
このサイトは「誤変換の宴」「エセ倍角の館」という面白コンテンツがより重要。「誤変換の宴」は同じコンセプトを後年『僕の見た秩序』が「ゆかいな誤変換。」として書籍化までさせたが、『三ツ矢浩之のホームページ』の方が先発である。
『不連続日記事件』は『あみのホームページ』の一コンテンツ。 1日8時間以上をサイトの更新に使っており、管理人の河合あみこは「日記界の女王」と呼ばれた。
『狂乱西葛西日記』は『nozomi Ohmori SF page』の一コンテンツであり、SF作家である大森望はインターネット初期から雑誌にウェブの出来事について色々書いていた人である。
■『日記リンクス』:http://www.ita.tutkie.tut.ac.jp/~tsuda/links/nikki/index.html
■「誤変換の宴」(三ツ矢浩之のホームページ):http://stat.t.u-tokyo.ac.jp/~mitsuya/gohenkan.html
■『あみのホームページ』:http://www.kinotrope.co.jp/~ami/
*:詳細はこちらを参照⇒「『日記リンクス』の開始」
◆雑文サイトの発生
ウェブ日記は所詮日記な訳だが、そうではなくて人に読ませる事を前提にした随筆・エッセイを公開するサイトが現れた。 これは「雑文サイト」と呼ばれた。 雑文サイトの中心的存在は1995年に開設した『雑文館』である。 代表作として、遊び場「ひまわり広場」を巡る小学生達の争いを綴った「ひまわり戦記」がある。 『雑文館』以外のサイトとしては『ATSUYO’S HOMEPAGE』『みや千代日記』『補陀落通信』『それだけは聞かんとってくれ』『鉄血くだらな帝國』『大西科学』『どーでもいいコトを真剣に考えてみよう』『森で屁をこく』等が挙げられる。 1998年には決められたお題の文章をみんなで創作する企画である「雑文祭」が行われ、2005年の第七回雑文祭まで行われた。
■『雑文館』:http://www.zatsubunkan.net/
◆Windows95(日本語版)発売
1995年11月23日、Windows95の日本語版が発売された。秋葉原にあった各家電量販店はこれを一大イベントとして盛り上げ、秋葉原はお祭りのようになった。
Windows95は使いやすさが向上したOSであった。グラフィカル・ユーザー・インターフェースの改良。プラグアンドプレイによる周辺機器の容易な増設。ネットワーク設定の容易化。
そしてインターネットを意識したOSでもあった。インターネットに注目が集まっていく……
◆その他
1995年3月27日:『東京トップレス』開設。風俗マニアの工藤によるエロ・風俗情報サイト。1995年時で一日一万アクセスあったという。
1995年5月14日:『NAKATA Personal Home Page Magazine』開設。ジャンルごとに個人サイトを紹介するオンライン・マガジン。個人サイトの検索機能も実装した。登録された個人サイト数は1999年3月で7382。
1995年5月:『地下道入口』開設。後のUGサイトの原点的サイト。
1995年12月:『★阿修羅♪』開設。社会問題を議論する掲示板サイト。 ★阿修羅♪はオウムへの強制捜査前に、強制捜査が入ることをPC-VANの掲示板に書き込んだ事で注目された。
1995年11月1日~1996年2月8日:「メガ日記」。100人が100日間限定で一つの掲示板に日記を書いていくプロジェクト。
1995年11月3日:『MOROBOSHI Tomorou HomePage』開設。日記界の二大事件、日記リンクス630事件と日記猿人812事件について多く言及していた。日記界四天王の一人。
1995年12月:『Vector』開設。パソコンソフトのダウンロード専門サイト。開設当初は『THE COMMON for SOFTWARE』。1996年10月に『Vector Software PACK』となり、1998年10月に『Vector』となった。
■『★阿修羅♪』:http://www.asyura.com/
■『メガ日記』(下の画像はhttps://www.ntticc.or.jp/en/feature/1995/The_Museum_Inside_The_Network/mega/index.html)
■『Vector』:http://www.vector.co.jp/
1996年(平成8年)
日記界の動乱
▼主な出来事
インターネット1996ワールドエキスポジション、 開始したインターネット接続サービス、 五大全国紙のサイト出揃う、 ベッコアメ事件、 『RECRUIT BOOK on the Net』サービスを開始、 嬲リンク事件、 『Yahoo! JAPAN』サービス開始、 『この指とまれ!』と『デジタルトキワ荘』の開設、 日記界の動乱、 ウェブとオウム真理教、 『あやしいわーるど』開設、 『infoseek Japan』サービス開始
◆インターネット1996ワールドエキスポジション
1996年1月から年末まで「インターネット1996ワールドエキスポジション」が開催された。
世界初のインターネット上で行う仮想万国博覧会であり、世界80か国が参加した。
通常の万国博覧会では主催となる国を立てるが、エキスポ '96では主催国という考え方はなく、各国が独自に活動していき、それをインターネットで連携させる方式。
日本ではWIDEプロジェクトの他に参加企業として日本の大手通信・家電・プロバイダの各社が参加し、パビリオンを設置した。
また、下記試みも行われた。
・日米間のインターネット回線を14Mbps回線から45Mbps回線に増強
・128Kbit/sの高速回線を個人へ提供(公募で150回線)
・エキスポ '96を高速回線で閲覧出来るパブリックアクセスポイントを全国に設置
・ライブの中継
エキスポ '96は世界130か国から約5千万人が来場し、5億4千万アクセスを記録した。
IWE'96は、Internet 1996 World Exposition(インターネット1996ワールドエキスポジション)の略称で、 1月1日から世界同時に始まったインターネットというネットワークの中で行われているこの新しい形態の博覧会です。 開幕後、参加国も増え、様々なパビリオンが展開されています。 日本も、4月1日に、多くのパビリオンがオープンし、装いを新たにグランドオープンいたしました。 この博覧会は、45Mbit/sという、高速な次世代の通信環境を実験的に構築し、大小を問わず様々な企業や自治体、 個人が世界中からパビリオンを展開しています。 また、映像や音声を使った新しいマルチメディアインターネットの世界も体験できます。
インターネット 1996 ワールドエキスポジションとは (Internet 1996 World Exposition):https://park.org/Japan/JZone/Low/LwhatIWEj.html
■インターネット1996ワールドエキスポジション トップページ:http://park.org
■インターネット1996ワールドエキスポジション メインページ:http://park.org/main.html
■NTTのパビリオン:http://japan.park.org/Japan/NTT/MUSEUM/index.html
■KDDのパビリオン:http://japan.park.org/Japan/KDD/indexj.html
■NECのパビリオン:http://japan.park.org/Japan/CyberPlaza/index_e.html
■富士通のパビリオン:http://japan.park.org/Japan/Fujitsu/index.html
■松下電器のパビリオン:http://www.japan.park.org/Japan/Panasonic/index01.html
■日立のパビリオン:http://japan.park.org/Japan/Hitachi/indexj.html
■ソニーのパビリオン:http://japan.park.org/Japan/Sony/index.html
◆開始したインターネット接続サービス
1996年1月15日、ソニーが「So-net」のサービスを開始。 4月には三菱電機が「ドリーム・トレイン・インターネット」のサービスを開始、12月25日にはNTTが「OCN」のサービスを開始した。
◆五大全国紙のサイト出揃う
前年に引き続き大手新聞社がサイトを開設。
1996年1月9日に日本経済新聞が『NIKKEI NET』を開設。6月16日に産経新聞が『産経Web』を開設した。
前年に読売新聞・毎日新聞・朝日新聞がサイト開設済みであるから、これで五大全国紙全てがサイトを持つ事になった。
なお、毎日新聞は1996年4月に『AULOS』を開設。前年に開設していた『Jam Jam』は速報性、『AULOS』は深層に迫るとし、2サイト体制にしたが1999年4月にサイトを統合した。
1997年11月22日、日本経済新聞は朝刊で山一証券が自主廃業するという記事を出した。
これは日本経済新聞独自のスクープ記事だったのだが、インターネットで情報が配信された為、既存メディアでの報道を見る前に知った人もいた(*4A)。
*4A:「「自主廃業と出ています」。1997年11月22日未明。インターネットでいち早く報道を見た山一証券ロンドン支店の後輩からの電話は、信じられないというような戸惑いを含んでいた」⇒「山一破綻20年:OBら語る信用喪失の恐怖、カネ余りでも消える資金」(Bloomberg)、 「それから1週間もたたない22日未明、日本経済新聞が「山一証券、自主廃業へ」のスクープを配信する。その日の早朝から臨時取締役会が開かれ、知り合いの役員は全員本社に缶詰にされる」⇒「第4回 三洋、拓銀、山一が週替わりで潰れた1997年11月 休日丸ごと返上、東京・札幌行ったり来たりの悪夢」(システムリサーチ)、
■『NIKKEI NET』:http://www.nikkei.co.jp/
■『産経Web』:http://www.sankei.co.jp/main.html
◆ベッコアメ事件
1996年1月31日、ベッコアメ・インターネットのサーバーに猥褻な画像をアップロードしてい東京都内の会社員(28歳)と高校生(16歳)が、わいせつ図画公然陳列容疑で警視庁の家宅捜索を受けた。 4月22日、東京地裁は会社員に懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決を下した。 このとき警察はベッコアメのシステムを差押えたのだが、その為ベッコアメの業務に影響が出たほか、この事件に関係ない契約者の情報が警察に渡る事態になった。 「日本のインターネット史上、最初の逮捕事件」ともいわれる。パソコン通信においては1995年に「P-STATION事件(懲役10ヶ月)」「MEDIA大阪事件(罰金50万円)」の2例がある。
◆『RECRUIT BOOK on the Net』サービスを開始
1996年2月、リクルートは『RECRUIT BOOK on the NET』のサービスを開始した。これは後の『リクナビ』である。
『リクナビ』は社会に大きな影響を与えた、功罪あるサービスである。従来の大学就職課を経由した就職活動を根底から変えた。
学生から企業へ大学就職課を通さないエントリー、企業から学生へ大学就職課を通さないアプローチ。
それは学生が自分の行きたい企業へエントリー出来るというあまりにも大きな功の半面、学生が数多くの会社へエントリーする状態を生み出し、
企業側はより優秀な学生にエントリーしてもらえるよう、自社のアピールに多くの労力を割かれる事になった。
『リクナビ』による就職活動・採用活動革命は就職氷河期と重なった為に、学生は多くて100社近くエントリーするという過酷な状況も生まれた。
また、学生が自分の行きたい企業へエントリー出来るといっても、実際は大学入試偏差値による説明会エントリーの足切りが行われている場合もあり、
00年代にウェブで話題となった。
同年、リクルートは『Digital B-ing』のサービスを開始。これは後に『リクナビNEXT』となった。
◆嬲リンク事件
『Comoesta's Japan HomeVage』はライター「コモエスタ坂本」のサイトである。 1996年3月、『Comoesta's Japan HomeVage』は「使えないページ」というページを公開した。 これはネガティブリンク集であり、くだらないサイトに対しネガティブなコメント付きでリンクを貼っていった。
「使えないページ」の語源は、文字通り「useless page」である。 alt.binary.tastlessの世界が「味のない世界」と訳され、ある種の独自の世界を構築していたように、この「使えない」世界もグローバルに旬である。 先人の研究結果は「Useless WWW Pages」やMirky's Worst of the Webを参照してくれ。
「インターネット」と「ホームページ」というかけ声だけ先行している昨今、「使えない」奴らの間抜け具合は素晴らしい。 私はページを神経細胞になぞらえているが、これら「使えない」ページは、そのうち死滅していくに違いない。 それらがどうして死滅していくかは、私の病態学的な研究心をそそってやまない。
「使えないページ」の定義はこうだ。あまりにつまらなすぎて「ああ、くだらねえ」と笑うしかないもの。 しかしそれが作者の意図に乗って面白いものなら駄目。そして、それなりに完成度が高い事。初心者にありがちな技術的なミスや、未完成の部分を指摘するのではない。 ページとしてはある程度出来上がっていて、しかも誰が見てもつまらないと思える、これが重要なのだ(何が重要なのだか)。
使えないページについて(Comoesta's Japan HomeVage)
1996年4月19日、コモエスタ坂本は『Comoesta's Japan HomeVage』内に「嬲リンク」というページを作った。
嬲リンクでは主に自意識過剰で自己顕示欲の強い女のサイトに対しネガティブなコメント付きでリンクを貼る。使えないページと同じくネガティブリンク集である。
そしてその対象となったサイトの一つが「やすぴょん」という人物のサイト『Lady's Homepages』であった。
コモエスタ坂本は『Lady's Homepages』を観察した。『Lady's Homepages』はリンク集サイトなのだが、リンク対象は女性が管理人のサイトであり、
女性を褒める内容のコメントと共にリンクを貼っていた。
コモエスタ坂本は『Lady's Homepages』の やすぴょん が男であることを見抜いた。そしてやすぴょんの下心を感じた。
この「やすぴょん」のページもひと月ぐらいあたためていましたかね(笑)。 このページ、当初は「Lady's Homepages」って名前のリンクページで、バック色がピンク、テキストの文体も内容も女っぽく、「やすぴょん」が自己紹介を書いてなかったんですよ。 要するに偽装娘ページ、いわゆるオカマページだったんですね。奴さんが何を目論んでたのかは一目瞭然でしょう(笑)。 単にページを作っている女の子にお近づきになりたいと。実像は非常に粗暴で男くさい、家庭持ちの間抜けなサラリーマンだったんですがねえ(笑)。
で、「やすぴょん」はその後、自己紹介を掲載して、相変わらずな内容のページを作り続けていました。何が間抜けかと言えば、ページ中のコメントに尽きますかねえ。 「あったかくて、かわいくって、センスの良い、女性のページを選びました」とか「エチケットを守って、頑張ってる女性をみんなで応援していきましょう!!」とか、またそれぞれのリンクに冠しているコメントなども枚挙にいとまが尽きないのですがね。 それで、この「やすぴょん」の勝手な思い込みと、無意識的な下心のギャップが面白かったので、6月3日に「嬲リンク」に掲載しました。 その背景としては、当時も現在もですが、この手の「娘ページリンク集」ってのが多発してるという状況がありますかね。 こういうリンク集は、大抵娘ページを作ってる側にリンクページの主催者が許可を取るか、もしくは娘が自分で応募してくるか、という方式が主流なんですが、この主催者側も他人のフンドシ的な奴か、下心的な奴が大半で、また娘側も自己顕示欲の強いだけの間抜けな女が多いという図式になっていたんですね。 そこで、ミュージアムを標榜する「嬲リンク」としては、この構造を喝破したいと思いまして。 まあそういうサンプルにはうってつけだったんですよ、この「やすぴょん」のリンク集は。
コモエスタ坂本インタビュー「嬲リンク事件」の内幕(インターネットXファイル98)
1996年6月3日、コモエスタ坂本「嬲リンク」に『Lady's Homepages』へのリンクを加える。勿論ネガティブなコメントと共に。
「女衒」
このページを作っている「やすぴょん」は男。これは娘ページへのリンク集、いわゆるポン引きページだが、リンク集+リンク集のリンク集と程良くまとまっている。腐れフェミニスト万歳。 (06/03/96)
嬲リンク(Comoesta's Japan HomeVage)
これを見た『Lady's Homepages』のやすぴょんがコモエスタ坂本に嬲リンクの削除と謝罪文の掲載を要求。 コモエスタ坂本は反論する。「これからも「やすぴょん」こと村田康人に対する「嘲笑」を続けます」。 このことが原因で『Lady's Homepages』は閉鎖となったのだが、やすぴょんはASAHIネットに『Comoesta's Japan』の削除要請を出していた。 個人サイト間でのいざこざであったがASAHIネットは介入し、コモエスタ坂本に嬲リンクの削除を要求。 コモエスタ坂本はこれを「事実上のプロバイダによる検閲」とし、サイト上で抗議した。するとASAHIネットは抗議が書いてあるページを削除。 更に嬲リンクを削除した。
◆『Yahoo! JAPAN』サービス開始
1996年、ソフトバンクと米『Yahoo!』は合弁でヤフー株式会社を設立。4月1日にインターネット検索サービス『Yahoo! JAPAN』を開始した。
サービス開始すぐに一日のページビューが32万を超え、9月には100万ビューを超えた。2000年7月には1億ビューを突破。2004年10月には10億ビューにまで達した。
『Yahoo! JAPAN』はインターネット検索に止まらず、ニュースやテレビ番組表・オークション等様々な機能を実装していき、ポータルサイトとして確固たる地位を築いた。。
米『Yahoo!』は1994年、スタンフォード大学のDavid FiloとJerry Chih-Yuan Yang(楊致遠)が作成したリンク集サイト『David and Jerry’s Guide to the World Wide Web』から始まる。
1995年、2人は『Yahoo!』を設立。事業としてポータルサイト運営を行う。これに目を付けのがソフトウェア卸売業「ソフトバンク」の孫正義であった。ソフトバンクは『Yahoo!』に出資した。
■『Yahoo! JAPAN』:http://www03.yahoo.co.jp/
◆『この指とまれ!』と『デジタルトキワ荘』の開設
1996年5月27日、ヌーベルバーグはウェブ同窓会サイト『この指とまれ!』を開設した。通称は『ゆびとま』。
後にsocial networking service(SNS)と呼ばれたサービスの嚆矢。
このサイトには全国の学校のページが用意されており、漢字実名で登録したユーザーが自分の卒業した学校と卒業年を指定する事で卒業生同士が繋がっていくという仕組み。
ハンドルネームは禁止である。ユーザー数は2003年12月に148万人であった。
秀逸なアイデアで有名サイトになったものの、
創業社長の小久保徳子は第16回長崎県知事選挙(2006年)に出馬し落選。運営会社はかつて山口組系弘道会にいた下村好男に乗っ取られ、その後も運営会社が変わっていき、徐々に存在感を失っていく。
『ゆびとま』を乗っ取った下村好男は他にも精密機器メーカーのアドテックスも乗っ取り、副社長をしていた。
アドテックスの資産を不正に流用したとして下村好男が逮捕された際に、『ゆびとま』の社長にもなっていた事が解ったという経緯である。
また、同年?開設した『デジタルトキワ荘』はゲーム業界に進みたい人とゲーム業界人がユーザー登録し、掲示板で交流するサイト。これもSNSの嚆矢といえる。
■『この指とまれ!』:http://yubitoma.sphere.ne.jp/
■『デジタルトキワ荘』:http://www.gamecreators.net/
◆日記界の動乱
日記界の中心にいた『日記リンクス』に事件が起きる。そのきっかけを作ったのは日記リンクス登録番号226番『とほほ日記』のばうわうであった。
ばうわうは『日記リンクス』で実装しているランキング機能について、その不公平さを訴えた。
そして、面白い(と自分が思う)日記が上位にないのは、何らかの不正操作の結果であるとまで主張したのである。
1996年6月1日、ばうわうは『とほほ日記』内に日記リンク集ページを作った。やがて協力者が現れ、新規登録機能と更新報告機能、投票ボタン押下形式によるランキング機能を実装。
ここに新たな登録型ウェブ日記リンク集『日記猿人』が誕生した。
ばうわうによる『日記リンクス』への攻撃は激しさを増した。その内容は津田によると【日記で個人攻撃】【他人の登録データを改変】【パスワードを不正操作】であったという。
「これ以上我慢出来ない」。1996年6月30日、津田はついに強硬手段をとった。ランキング機能を中止し、併せて『とほほ日記』を『日記リンクス』から削除したのである。
しかしばうわう氏の行動は目にあまりました。日記で個人攻撃を行い、他人の登録データを改変し、パスワードを不正に操作する行為を、今まで幾度となく繰り返しました。そしてアクセスランキングに自分で投票し、常にランキング上位にいる事で自分の日記を注目され続けていました。 アクセスランキング及び日記リンクスがそのような不快きわまりないページのアクセスを増加する助け、となっている状況は、これ以上我慢出来ませんでした。これはばうわう氏の日記の登録削除およびアクセスランキング中止の理由です。
http://nikki.ita.tutkie.tut.ac.jp/nikki/seimei.html
事前予告無しの削除という強行手段をとった津田は非難を浴びた。この事件は「日記リンクス630事件」と呼ばれた。
さて、津田に代わって日記界の中心に君臨したのは、誰あろう ばうわう その人であった。登録型ウェブ日記リンク集の主役は『日記リンクス』から『日記猿人』へ。
然し、そのやり方の強引さは多くの非難を浴びた。ばうわうは自分を非難したサイトに対し、掲示板に突撃。更に多くの非難をもたらした。
1996年8月、ばうわうは「未確認日記物体UDO”誘導”」を企画する。企画の具体的な内容としては『日記猿人』に登録されている日記の紹介。
然し、これには問題があった。ばうわうは『日記猿人』の管理人という立場である。 そのばうわうが特定の日記を紹介するという事は、結果として『日記猿人』の運営側がランキングを操作するという事になってしまうのである。
ばうわうは嘗て『日記リンクス』の不公平なランキングを非難していた。そのばうわうが(結果的には)ランキングを操作するのである。
これを『日記猿人』の私物化であると非難した夜久則彦は8月6日、「ばうわう公式ウォッチング日記物体BOWDO”暴動”」を始めた。
ばうわうはサイトに自身の顔写真を掲載しており、リンク自由・ダウンロード自由としていた。「BOWDO」はこの顔写真をネタに使った。
1996年8月12日、ばうわう氏は自身を非難する日記を『日記猿人』のリストから削除していった。登録されている日記を管理者権限で削除するという行為は、嘗て津田が行った事と同じである。
これに対し、反ばうわう派は削除された日記を再び登録し対抗した。
先人の轍を践むというのだろうか, その夜久氏の日記をばうわう氏は独断で日記猿人から警告なしに削除するという行為に出た. 日記猿人は津田日記リンクスと同様,或いはそれ以上の修羅の場と化した. 裏掲示板にばうわう氏に対する罵詈雑言,或いは彼のアイコラなどが張り付けられたりした. これは彼を激怒させたらしく,それ以来ばうわう氏は素顔をネットに晒さなくなった. 野球帽を目深にかぶった写真か,あるいは CG を使うようになった.
マスコミのような正義感で傍観者たちは新管理人ばうわう氏の専制を批判し攻撃した. ばうわう氏は暴徒とその同調者を次々に排除した. ところが排除されると同時に彼らは「再登録」した. はしたない泥仕合が始まった.
インターネットにおける自発的コミュニティの形成,特に Web 日記に関して(Hacked by NAGAE Takanori (3ki3ro) ):http://www.shobi-u.ac.jp/~tnagae/pub/wdc/010409.html"
ばうわうへの非難が嵐のように吹き荒れた。その様子は「日記リンクス630事件」と同等かそれ以上であったと伝わっている。
1996年8月14日、ばうわう氏は『日記猿人』の管理者を辞任し『とほほ日記』を削除した。 ばうわうが『日記猿人』から退場したこの出来事は「日記猿人812事件」といわれた。
こうして『日記リンクス』も『日記猿人』も登録型ウェブ日記リンク集の主役から降りざるを得なくなり、代わりに出てきたのが1996年7月2日に開設した『ReadMe!JAPAN』であった。
『ReadMe!JAPAN』のサイト登録条件は日記に限らず、読み物であれば何でもOKという間口の広さで、有力サイトが次々と集まっていった。
なお、『日記猿人』は残された管理人によって『日記才人』となり、2007年まで存続した。
ばうわうは日刊テレビウォッチングレポートのサイトを立ち上げ、サイト名を『日記猿人』とした。このサイトも人気となり2002年まで『ReadMe!JAPAN』のランキング上位にいた。
*:詳細はこちらを参照⇒「日記リンクス630事件」「日記猿人812事件」
■『日記猿人』:http://wafu.netgate.net/ne/
■『ReadMe!JAPAN』:http://readmej.com/
◆ウェブとオウム真理教
1996年6月1日、オウム真理教への破防法適用を反対するサイト『STOP!STOP!破壊活動防止法』が現れる。 そのサイトの管理人は河上一郎と名乗った。
破防法と公安調査庁が完全消滅する日まで!
日本を徹底的に破壊する破防法はいらない!
国民を無差別に監視する公安調査庁は百害あって一利なし!
組織犯罪対策立法の本当の狙いはわたしたち善良な市民!
STOP!STOP!破壊活動防止法:http://members.xoom.com/angriff/haboho/index.html
1996年9月15日、『VAJRAYANA 真理の探究』が開設した。「オウマー」と呼ばれるオウム真理教マニアの西村「新人類」雅史のサイト。オウマーだけあって、このサイトにある数々のオウム真理教ネタはとても濃い。
1996年10月11日、オウム真理教は『INTERNETオウム真理教』を開設した。
このホームページは、これまで会見場として利用してきた亀戸道場、阿佐ヶ谷道場を明け渡し、開催が困難になった記者会見を補足する情報提供、意見交換の場として、この度開設しました。オウム真理教に関する最新の情報を、きめ細かに、いち早く提供して参りたいと思います。
INTERNETオウム真理教:http://aum-internet.org/
コンテンツとしては「オウム真理教24時間速報掲示板」「荒木浩広報副部長の活動日誌」「報道されないオウム事件ファイル」「再検証・破防法適用手続」「オウム破防法適用で民主主義が危ない!!」があった。
『STOP!STOP!破壊活動防止法』は『INTERNETオウム真理教』からリンクが貼られた。
1997年1月15日、公安審査委員会はオウム真理教への破防法適用を却下した。
河上一郎は西村新人類からイチローと呼ばれていた事をきっかけに、河上イチローへ改名(*4A)。 10月、『STOP!STOP!破壊活動防止法』は既存メディアに対する挑戦状・告発系検証サイト『DerAngriff』として再出発した。
違法じゃないのに
多くの人が遠慮する
情報を発信する!
CyberAgent
ハカイダー
河上イチローの
ウェブサイト
"Der Angriff"
Der Angriff":http://www.baynet.or.jp/~aasasaa/
河上イチローは1998年に「サイバースペースからの挑戦状」、1999年に「サイバースペースからの攻撃」を著した。この二冊は当時のウェブの空気が解る資料である。
2000年9月23日、『DerAngriff』は河上イチローがウェブ上から消滅する為の布石として副管理人を募集。 10月23日、『DerAngriff』のコンテンツを副管理人に託し、河上イチローはウェブから姿を消した。 ここで『VAJRAYANA真理の探究』が、河上イチローはオウム真理教の「カーマ・アニッチャ・パンニャッタ・パンニャーヤ・ムッタ・デーヴァ師補」であることを暴露した。
2001年10月3日、河上イチローは『半跏思惟』を開設した。このサイトでは自身がアレフ出家修行者で今も修行を続けている事を公表し、本名を公開した。 コンテンツとしては日記と自伝。
2003年1月11日『半跏思惟』は更新を停止。これを河上イチローは「充電期間のようなもの」とし、「更新再開のあかつきには、激しくパワーアップしてお目にかかれるよう、今後とも精進いたします」と書いた。 その八か月後、河上イチローは再びウェブに現れた。違うハンドルネームと違うサイトで……
*4A:「カタカナの「河上イチロー」の命名者って、私なんです。昔は漢字で「一郎」だったけど、俺がオリックスの鈴木イチローの真似して「イチロー、イチロー」って面白がって書いたら、知らぬ間にあっちもそう名乗るようになってました」 ⇒●
■『INTERNETオウム真理教』:http://aum-internet.org/
■『DerAngriff』(開設は1997年):http://www2.baynet.or.jp/~aasasaa/index.html
◆『あやしいわーるど』開設
『あやしいわーるど』は匿名掲示板群である。
1995年3月20日、窮地に立たされたオウム真理教は地下鉄サリン事件を起こす。 それからまもなく「霞ヶ関」という地下ゲームが登場した。
題材は地下鉄サリン事件であり、不謹慎ゲームとして話題になった。
このゲームを所持していた芝雅之(しば)がNIFTY-Serveのホームパーティ(個人用掲示板のようなもの)を利用し「霞ヶ関」を配布していた。
1996年8月21日、芝はデジタルエデンの無料掲示板サービスを利用し『あやしいわーるど』をスタートさせる。 そこでの話題の中心は「warez」等のアンダーグラウンドなものであった。
『地下道入口』閉鎖後は、難民が押し寄せたことによりハック・クラックの話題が増えていく。
1996年12月23日、デジタルエデンが無料サービス終了。無料の掲示板サービスである県人会に移転した。
1996年12月26日、一般ネタの「97」と 技術ネタの「2000」に分割。「2000」では掲示板荒らしを行う者達がおり、その者達は後に生まれる掲示板破壊集団「ゲスッ」のメンバーであった。1997年にはゲスッが数多くの掲示板を荒らした。
ゲスッのメンバーであるアリス・リデルを慕っていたHighwayBLOODはポンポンネットの顧客情報を手に入れ、ポンポンネットを恐喝した。HighwayBLOODは1998年1月18日に逮捕された。これは「ポンポンネット事件」と呼ばれた。この事件についてアリス・リデルはNHKのニュースでコメントした。
1998年3月、ゲスッのアリス・リデルが、掲示板アタックツール「PerlDUKE」を公開。 さらに、『あやしいわーるど』に対しPerlDUKEをテスト使用。これにより あやしい住民と対立した。 あやしい住民はNHKニュースに出たときのアリス・リデルの映像でコラージュを作り、アリス・リデルを笑いものにした。 挑発されたアリス・リデルは『あやしいわーるど』を更に攻撃した。
1998年9月3日、『あやしいわーるど』は閉鎖した。
■霞ヶ関■(ゲーム)
◆『infoseek Japan』サービス開始
1996年10月、米『infoseek』は『infoseek Japan』のサービスを開始した。検索エンジンとサイトスペース提供サービス。日本ではデジタルガレージが運営。 2000年、楽天に買収される。2010年10月31日にホームページスペース提供サービスが終了。日本のウェブ黎明期に作成された個人サイトが惜しまれつつも削除された。
■『infoseek Japan』:http://japan.infoseek.com/
◆その他
1996年1月15日?:『東京トイレマップ』開設。東京にある駅のトイレを5段階で評価するサイト。トイレにあった落書きも載っている。
このサイト用に写真を撮っていたらトイレ以外の面白い写真が集まったので、それを載せる場として作ったのが
同年5月に開設した『Webやぎの目』。この2サイトの管理人である林雄司は後に『デイリーポータル Z』の編集長になる。
1996年5月30日:『Surfersparadise』開設。登録型検索エンジン。登録出来るサイトのジャンルは漫画、アニメ、イラスト、小説、ゲーム。通称は「サーパラ」。
1996年6月6日:『パワートダイ』開設。オウム貝を食べたり、すごいものでゆで卵を作ったり、日本のマクドナルドにまだメガマックが販売されていない時代に自力でメガマックを作り、それどころかテラマック、ぺタマックと作ってしまったり……
1996年5月30日:『TINAMI』開設。登録型検索エンジン。登録出来るサイトのジャンルは漫画、イラスト。
1996年7月1日:『東京のラーメン屋さん』開設。「自称日本一ラーメンを食べた男」大崎裕史が開設したラーメン情報サイト。後にラーメン評論家の第一人者となる大崎裕史だが、このサイトは大崎裕史がラーメン評論家としての第一歩を踏み出したサイトである。
他には、「湯気のむこうの伝説―ラーメン偉人伝」を著した大村明彦の『ジャンボのラーメン三昧』。翌年には「第4回ラーメン王選手権」で準優勝した北島秀一の『しうの電脳麺記』や『魔人ブウ*のラーメンデータベース』が開設した。北島秀一もラーメン評論家となり、新横浜ラーメン博物館に転職した。
この4サイトは(インターネット)ラーメン四天王と呼ばれた。そしてこの4サイト以外にもそれぞれの地域で力を持ったラーメンサイトが多数発生し人気となった。ラーメン批評サイトは90年代後半から00年代前半のラーメンブームに貢献した。後の世にラーメンYouTuberが現れるが、ラーメン四天王はその先駆けといえる。
1996年7月9日:『ハイパーノイヅ』開設。「新世紀エヴァンイミダス」が有名な妄想サイト。
1996年7月12日:『Fast & First』開設。電化製品の分解したり、電子レンジだけでゆでたまごやクレープや厚焼き卵を作ったりしている実験サイト。
1996年9月10日:『とほほのWWW入門』開設。個人サイトを作った人であれば誰もが見た事があるといわれるHTML解説サイト。
1996年11月5日:『MACお宝鑑定団』開設。複数人が運営に関わったり、団員を集めていた、3つのMac関連個人サイトの一角。
1996年11月7日:『今日の必ずトクする一言』開設。科学技術エッセイ。
1996年11月:『SHIFT』創刊。E-ZINE。テキストサイトの1ジャンルであるコジャレ系の発祥地。ここに取り上げられたサイトとして『ハイパーノイヅ』『outdex』『ペヤンゲ』『ヤングオデオン』等が挙げられる。
1996年12月:『手動サーチエンジンはやぶさ』開設。世界初??世界最遅の手動サーチエンジン。自称、「手動検索のパイオニア」「手動検索に命をかける男」。
■『東京トイレマップ』:http://www.asahi-net.or.jp/~ad8y-hys/
■『Webやぎの目』:http://www.kt.rim.or.jp/~yhayashi/
■『パワートダイ』:http://www.powertoday.com/
■『Surfersparadise』:http://sp.cup.com/
■『TINAMI』:http://www.tinami.com/
■『ハイパーノイヅ』:http://home.interlink.or.jp/~hyp/indexe.html
■『とほほのWWW入門』:http://www2e.meshnet.or.jp/~s-hasei/www.htm
■『SHIFT』:http://www.iacnet.or.jp/shift/001/indexj.shtml
1997年(平成9年)
アングラな世界の中で
▼主な出来事
開始したインターネット検索サービス、 開始したインターネット接続サービス、 『Internet Watch』のWWW版開始、 私書箱型掲示板の登場、 酒鬼薔薇聖斗事件、 『あめぞうリンク』開設、 『HotWired Japan』と『ZDNet Japan』開設、 『ジオシティーズ』サービス開始、 原始テキストサイトの誕生、 個人ニュースサイト界の動向とアングラ
◆開始したインターネット検索サービス
1997年3月27日、NTTはインターネット検索サービス『goo』を開始した。
『goo』は『Yahoo! JAPAN』と同じようにインターネット検索に止まらず、ポータルサイト化に進んでいったが存在感で『Yahoo! JAPAN』に大差をつけられている。
1997年7月には米Exciteが『Excite日本語版』のサービスを開始した。日本法人には伊藤忠が出資。
1999年、米Exciteは@Home Networksが買収するも2001年9月に経営破綻。@Home Networksが持つ株を伊藤忠が買い取った。
『Excite日本語版』もポータルサイト化に進んでいった検索サービスであり、2000年9月に公開したエキサイト翻訳は、その精度の高さが話題になった。
■『goo』:http://goo.ne.jp/
■『Excite日本語版』:http://www.excite.co.jp/
◆開始したインターネット接続サービス
1997年は4月1日に日本テレコムが「ODN」のサービスを開始。 7月1日にはDDIが「DION」のサービスを開始した。
◆『Internet Watch』のWWW版開始
インプレスは1994年以降、インターネットマガジンの創刊から始まり、『窓の杜』・『秋葉原マップ』・秋葉原の情報を伝える『AKIBA PC Hotline!』・パソコンWebマガジン『PC Watch』の運営等、ウェブに大きな貢献をしていった。 『Internet Watch』は1997年1月に始めたインターネット関連のニュースサイトである。元々は有料メールマガジン形式だったものをウェブサイト化した。 『Internet Watch』は商業ウェブサービスの開始や動向をいち早く伝えていった。『Internet Watch』にある過去ログは商業ウェブサービスの歴史そのものである。
■『Internet Watch』:http://watch.impress.co.jp/internet/
◆私書箱型掲示板の登場
1997年5月30日、『ゆいちゃっと』が掲示板スクリプト「ゆいぼーど」を公開。 これは親掲示板に対し、投稿者が自由に子掲示板を作成出来るという特徴を持つ掲示板スクリプトであった。 また、imgタグで画像を貼り付ける事が出来た。 『あやしいわーるど』の住民達は次々と「ゆいぼーど」を使った掲示板を立ち上げ、それらは「私書箱」と呼ばれ、内容がアングラの場合は「アングラ私書箱」と呼ばれた。 代表的な私書箱に『GERI-P!』『グヘ箱』『むし箱』『歪んだ運命』『LNB』『私書ばっこん』『BlackBOX』等が挙げられる。 数多く作られた私書箱であったが内容がアングラな物が多く、故に短命に終わるものが多かった。 一時期は絶滅の危機に瀕したが、後に『廃墟』や『自動アンケート』が登場したことで絶滅せずに今も命脈を保つ。
◆酒鬼薔薇聖斗事件
1997年6月29日、『あやしいわーるど2000』で神戸連続児童殺傷事件の犯人である通称:酒鬼薔薇聖斗の実名とされる名前が書き込まれた。 ウェブでは複数の名前が挙がっており、この時点では『あやしいわーるど2000』に書き込まれた実名が真実かは解らなかったのだが……
[6/29 15:41] 酒鬼薔薇:
◯◯◯◯、決定!!
じゃあ、次、生年月日、住所、電話番号いってみよう!!
(爆)
1997年6月30日、『産経Web』が掲示板に少年の実名が書き込まれているとし、掲示板に書かれた内容を掲載してしまう。
ホームページに少年の実名
神戸の小六男児殺害事件で、殺人、死体遺棄容疑で逮捕された神戸市須磨区の中学三年の少年(一四)の実名が、逮捕直後から同事件に関する情報交換が行われているインターネットのホームページの掲示板に掲載されていたことが三十日までに分かった。
問題の掲示板は、米国のインターネット接続会社に設けられている。東京に本拠を置くインターネット接続会社の会員が設けたこの事件を扱うホームページから簡単に接続が可能で、インターネット利用者ならだれでも見たり、自由に書き込むことができる。
このホームページでは、少年が逮捕された二十八日夜から書き込みが急増。少年について「こりゃ死刑だね。実名も報道すべし!!」との書き込みに答える形で二十九日午前十時二十五分ごろ、少年の実名を名乗って犯行声明全文が掲載された。
その後、読み方の説明を求める書き込みを受けて、名前の読みが平仮名で掲載された。中には「生年月日、住所、電話番号をいってみよう!!」とさらに少年についての情報提供を求める書き込みもあった。
産経Web:http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9706/html/0630side45.html
これにより6月29日に『あやしいわーるど2000』に書き込まれた名前が酒鬼薔薇聖斗の実名である事が確定。 酒鬼薔薇聖斗の実名が多くのアングラ系サイト、掲示板に書き込まれる事態になった。
酒鬼薔薇 発信日時:7月1日(火)00時10分35秒
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9706/html/0630side45.html
産経新聞様。 昨日、某掲示板に「◯◯◯◯決定。次、生年月日、住所、電話番号いってみよう!!」と書きこんだ者です。
昨日のあの時点では、ネット上に複数の名前が流布されており、ごくごく限られた人たちしかどれが実名であるか確認できない状態でした。
しかし、今日の貴社のホームページにより、おかげさまをもって、犯人の少年の名前は完全に確認することができました。
ありがとうございました。
今後の貴社のますますの発展を希望いたします。(爆笑)
というわけで、改めて生年月日、住所、電話番号いってみよう!!
『産経Web』は当該記事を削除したのだが、削除した事で更に信憑性が増した。
1997年7月1日、酒鬼薔薇聖斗について扱うサイトが次々に削除されていった。
これは各プロバイダが直接削除をしたり、サイト管理人に削除依頼を出したりしたのだが、
削除の背景に朝日新聞が各プロバイダに出した警告「削除しなければプロバイダ名を公表する」がある。
◆『あめぞうリンク』開設
日本における大規模掲示板群サイトといえば一番に『2ちゃんねる』だが、それよりも前に大規模掲示板群サイトのトップを走っていたのが1997年8月5日に開設した『あめぞう』である。 元々の名は『あめぞうリンク』であり、その名が示す通り掲示板へのリンクがコンテンツのサイト。これが自前で掲示板を持つようになり、大規模掲示板群サイトとしての『あめぞう』が始まった。 『あやしいわーるど』の閉鎖や大規模私書箱型掲示板の閉鎖により難民が『あめぞう』に移住。掲示板サイトの頂点に君臨した。
◆『HotWired Japan』と『ZDNet Japan』開設
1997年8月5日、NTT-Xは『HotWired Japan』のサービスを開始した。アメリカのウェブマガジン『HOTWIRED』の日本語版。
9月1日、ソフトバンクは『ZDNet Japan』のサービスを開始した。アメリカのウェブマガジン『ZDNet』の日本語版。
両サイトとも日本のウェブマガジンの代表格。
『HotWired Japan』は後に『WIRED VISION』『WIRED.jp』となり、『ZDNet Japan』は2004年1月に『ITmedia』となった。
2005年4月に『ZDNet Japan』の名称が復活した。これは元々の『ZDNet Japan』の系譜ではなく、
CNETの日本法人が運営。2008年5月には運営が朝日インタラクティブ(朝日新聞社の子会社)に変わった。
■『HotWired Japan』:http://www.hotwired.co.jp/
■『ZDNet Japan』:http://www.zdnet.co.jp/
◆『ジオシティーズ』サービス開始
1997年9月15日、米GeoCitiesは『GeoCities』の日本語版サービスを開始した。サイトスペース提供サービス。 日本ではソフトバンクと合弁。米GeoCities社は米Yahoo!社に買収され、日本法人もヤフーに吸収合併となって『ジオシティーズ』は『Yahoo!Japan』のサービスに統合され『Yahoo!ジオシティーズ』となった。 2019年3月31日にサービス終了。日本のウェブ黎明期に作成された個人サイトが惜しまれつつも削除された。
■『ジオシティーズ』:http://www.geocities.co.jp/
◆原始テキストサイトの誕生
1997年8月12日に開設した『"FUNNY" GAMER'S HEAVEN』は後のテキストサイトに大きな影響を与えたサイトである。内容はクソゲー論評。里見の謎のテキストが特に有名か。
フォントの大小を駆使した強弱ある文で後のテキストサイト達のお手本になった。同年開設の『クリアラバーソウル』は「妄想系ピラミッド最高峰」「コジャレ世代の日記系の頂点」と評され、
管理人の桑島由一は後にライトノベル作家となり「神様家族」等を著した。
1997年に開設したテキストサイトとして他には、女性が管理人だった『ぺヤンゲ』。
毎日更新のオナニー日記が面白い『ウガニクのホームページ』。ウガニクはライターになった。
『hosokinの出版業界喧嘩道場』(『ホソキンズ ルゥム』『HEY BULLDOG』)は、
『ReadMe!JAPAN』に新規登録されたサイトを読み、全てに感想の一行コメントを書く「ReadMe!新作レビュー」が代表コンテンツ。
この一行コメントは「つまらない雑文」」「中学生なみの文章表現力」「涙が出るほどつまらない」「写真は猛烈ブサイク」等、遠慮がない超直球な感想でサイト管理人達に恐れられた。
■『"FUNNY" GAMER'S HEAVEN』:http://bx.sakura.ne.jp/~fgh/index2.html
■『ウガニクのホームページ』:http://www.raidway.ne.jp/~okada923/
■『クリアラバーソウル』:http://www2s.biglobe.ne.jp/~kook/
◆個人ニュースサイト界の動向とアングラ
1997年7月7日に開設した『ムーノーローカル』は後の個人ニュースサイトに大きな影響を与えたサイトである。
「どーでもいいトピックス」は、毎日数個のURLを管理人のコメントとともに紹介する。
「気の狂った久米ひろしを目指した」というこのサイトは、目の付け所とコメントの面白さで個人ニュースサイトの見本になった。
初期の代表的な個人ニュースサイトの一つ。1999年11月には100万ヒット。2000年12月には500万ヒットを記録。
その人気は「ムーノーデー」という、みんなでサイトのデザインを『ムーノーローカル』にする企画が行われるほどだった。
「連日更新!!日本のお気楽スタートページ!!」を称していた『あ!ネット』は商業ニュースサイトが出したニュースの紹介だけではなく、
「ネットの話題」として個人サイトの記事も紹介していた事が重要。
『MP3 TIDALWAVE』はMP3情報が中心のサイト。MP3は音楽の違法アップロードで良く使われるフォーマットだった事もあって『MP3 TIDALWAVE』はアンダーグラウンド(アングラ)系の括りで扱われる事が多い。
『志保ちゃんのエミュレータニュース』は「To Heart」の長岡志保に成りきってゲームエミュレータの情報を伝えるサイト。
ファミコン(NES)、ス―パーファミコン(SNES)等コンシューマーゲーム機のエミュレータ自体は合法な物だが、
ソフトのロムイメージは00年代前半までウェブにアップロードされる事例が数多くあり、このサイトもアングラ系の括りで扱われた。
コンシューマーゲームソフトのロムイメージをウェブにアップロードし不特定多数に配布するのは違法行為。だが活発に行われていた。
コンシューマーゲームソフトのロムイメージをアップロードしていたサイトの代表的なものとして『SECRET』『FINAL WEAPON』『労務課の倉庫』『ファミコン決死隊』『ふくでんの館』等が挙げられる。
当時のエミュレータとしては「パソファミ」「iNES」「NESticle」「Famicom(後のFamtasia)」がある。Famicomはファミコンのロムイメージをアップロードしていたサイトと繋がりがあった。
なお、ロムイメージをそのままアップロードするのは危険として、ファイルに偽装をかけるソフトも沢山作られた。
音楽やゲームソフト・ビジネスソフト等がサイトスペースに違法にアップロードされていたのはウェブのアングラな部分の一例だが、
ウェブ全体にアングラな香りがしていた当時。アングラな情報を扱うサイトに大きな需要があった。
アングラリンク集の代表的サイトとして『カルトブックマーク』『世界最強の危険リンク集』『街の灯』『日本海溝』等が挙げられる。
また、大規模掲示板群サイトの『あめぞう』でもアングラの話題が多かった。
インターネットを用いて非合法的に配布されてた商用ソフトのことを「Warez」といい、日本では「割れ物」ともいう。
割れ物で人気だったものはゲームソフトだが、ビジネスソフトではなんといってもPhotoshopであり、ウェブの一部界隈の歴史を正確に語るにはPhotoshopの割れ物について触れざるを得ない。
■『ムーノーローカル』:http://muunoo.com/
■『あ!ネット』:http://www.sam.hi-ho.ne.jp/laputa/home.html
■『MP3 TIDALWAVE』:http://mp3tidalwave.com/
■『志保ちゃんのエミュレータニュース』:http://toheart.pos.to/emunews/
■『SECRET』
■『FINAL WEAPON』
■『カルトブックマーク』:http://cult.to/cult/
■『世界最強の危険リンク集』:http://www.midnight.nu/kikenda/
■『街の灯』:http://www.matino-akari.com/linksyu/
■「Famtasia」(ソフトウェア)
◆その他
1997年1月12日:『統合アーカイバ・プロジェクト』開設。
1997年2月1日:『青空文庫』開設。無料公開のインターネット電子図書館。著作権の切れた作品を収録。
1997年4月11日:『町田あかねのおクスリ研究所』開設。主に精神病に関する薬の話題。ここの人気コンテンツが「現役女子高生あやちゃんのお部屋」であった。
いじめを受けた結果、自殺未遂。精神科の閉鎖病棟に入院までした現役女子高生である南条あやが綴った精神病と入院の日記。同じ悩みを抱えた人達から支持を集める。
1997年4月16日:『Dr林のこころと脳の相談室』開設。質問者をときに優しく、ときにばっさり切る、精神科Q&A。
「まさかとは思いますが、この「弟」とは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか。もしそうだとすれば、あなた自身が統合失調症であることにほぼ間違いないと思います」という文が有名。
1997年5月:『価格.com』開設。当時のサイト名は『¥CORE PRICE¥』で、その後『¥パソコンの価格が分かるページ¥』、次に『¥パソコン価格情報¥』と変わり、『価格.com』になった。
1997年6月8日:『東風荘』開設。麻雀のオンラインゲームといえばこれ。テスト運営開始は1996年。
1997年9月3日:『悪徳商法?マニアックス』開設。
1997年10月3日:『カルトブックマーク』開設。雑文サイト。
1997年11月10日:『KEI画廊』開設。透明感がある水彩風の絵が特徴。このサイトの管理人は10年後、ウェブで一大ブームを巻き起こした「初音ミク」のキャラクターデザインを担当する事になる。
■『町田あかねのおクスリ研究所』:http://kusuri.net/
■『Dr林のこころと脳の相談室』:http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/index.html
■『東風荘』:http://mj.giganet.net/
■『森で屁をこく』:http://www.mori-he.net/
1998年(平成10年)
フォント弄りの広まり
▼主な出来事
開始したインターネット検索サービス、 『クックパッド』サービス開始、 ウルティマオンライン日本サーバーのサービス開始、 『ウェブリング・ジャパン』サービス開始、 WinGroove事件、 ドクター・キリコ事件、 テキストサイト界の動向、 個人ニュースサイト界の動向
◆開始したインターネット検索サービス
1998年5月11日、米AltaVistaはインターネット検索『AltaVista』の日本語版サービスを開始した。
『Google』登場するまでは英語圏でよく使われていた検索サービス。
1998年6月30日、東芝は『フレッシュアイ』のサービスを開始した。東芝独自の検索エンジンにより、作成・更新されたばかりのページも検索出来るのが売りだったが後に検索エンジンをinktomiへ変えた。
『フレッシュアイ』は2024年4月30日、サービスを終了した。
1998年7月2日、米Lycosは『Lycos』の日本語βサービスを開始した。日本法人には住友商事が出資。
浜崎あゆみを起用したCM「教えてLycos」が印象深い。楽天に吸収され、同じく楽天に吸収された『Infoseek』とサービスが統合された。
■『フレッシュアイ』:http://www.fresheye.com/
■『Lycos』:http://www.lycos.co.jp/
◆『クックパッド』サービス開始
1998年3月1日、『kitchen@coin』がサービスを開始した。後の『クックパッド』。 料理レシピの検索、投稿インターネットサービス。SNSの時代かつYoutuberが本格化する前の狭間時代に全盛期を迎えた。
◆ウルティマオンライン日本サーバーのサービス開始
1998年9月、ウルティマオンラインで日本サーバーがサービスを開始した。ソフトの販売自体はその一年前から行われている。 MMORPG(Massively Multiplayer Online Role-Playing Game:大規模多人数同時参加型オンラインRPG)を一般的なものとした、金字塔的作品。 日本のウェブ文化の観点でいえば、ウルティマオンラインの総合情報サイト(マップ情報・武器防具一覧・アイテム一覧・初心者情報・その他の攻略情報・掲示板等を揃えた個人サイト)は、 後の各MMORPG総合情報サイトの原点である。
◆『ウェブリング・ジャパン』サービス開始
1998年9月1日、兼松コミュニケーションズは『ウェブリング・ジャパン』のサービスを開始した。 ウェブリングサービスとは特定のジャンルのウェブサイト同志をリンクで数珠繋ぎしていく仕組みを提供するもの。 個人サイト全盛期では一定の役割を果たしたが、個人サイト衰退とともに必要性が薄れ、2007年3月7日にサービスを終了した。
■『ウェブリング・ジャパン』:http://www.webring.ne.jp/
◆WinGroove事件
『窓の杜』に収録されていたシェアウェアのソフトウェアシンセサイザー「WinGroove」は人気のソフトであったが、
IDとパスワードが不正にウェブへ流れていた。
1998年9月、WinGrooveの0.9Fβ6にハードディスクのデータを消去する問題が判明。
ウェブ上では「WinGrooveはウイルスに感染している」といわれていたが、実際はウイルス感染ではなく、
WinGrooveに組み込まれた機能で、不正に流れているIDとパスワードを入力するとIO.SYSを書き換え、FATをゼロクリアするというものであった。
作者は「実験で作ったディスク消去プログラムが混入した事故である」「意図的にこれを公開したものではない」と主張した。
不正対策とはいえ、あまりに危険な機能の実装であった為、『窓の杜』は記事で「極めて悪質で被害の大きい機能」
「作者から事故であるという主張がなされる前の段階で、多くの人が意図的な実装と受け取られてしまうのも無理はない」とし、WinGrooveを再収録を見合わせた。
◆ドクター・キリコ事件
札幌市北区に橋本直明という男がいた。橋本は日大理工学部工業化学学科卒であり、ハンドルネームとして草壁竜次を名乗った。
『安楽死狂会』の管理人は草壁とネット上で知り合い、『安楽死狂会』は草壁が質問に答える掲示板「ドクター・キリコ診察室」を設置した。
草壁はドクター・キリコになった。草壁は掲示板で自殺希望者の相談に乗り、主に薬の知識についての質問に答えていた。
1998年12月3日、杉並区高井戸の女性が草壁の口座に3万円を振り込み、草壁は青酸カリの入ったカプセル6錠を宅配便で女性に送った
12月12日、杉並区高井戸の女性は草壁から送られたカプセル6錠を飲み、病院に運ばれた。
12月15日、女性は亡くなった。同日、草壁も自殺した。
12月24日、マスコミが当件について報道を始めた。論調としては「インターネットを通じ注文か」「(インターネットは)自殺情報があふれる」「自殺情報はインターネットで自在に入手」「だれでも簡単に自殺の勧めに接することができる」
等、インターネットと当件を関連付ける報道がなされた。
12月25日、『安楽死狂会』が閉鎖した。数日後、掲示板も閉鎖した。
1999年、河上イチローは書籍「サイバースペースからの攻撃」で当件の調査結果を書き、「死んだ女性は草壁をインターネットで知ったわけではない」「インターネット経由で草壁と知り合って、青酸カリを飲んで死んだ人は一人もいない」と主張した(*6A)。
*6A:「サイバースペースからの攻撃」の102~189ページ。『安楽死狂会』の存在も、「ドクター・キリコ診察室」の存在も、そこに草壁が書き込んでいたのも事実だが、 その流れとは別に、人伝で高井戸の女性は草壁を知り、草壁に薬をお願いした。
◆テキストサイト界の動向
1998年3月6日、『A_prompt.』が開設した。管理人は同年話題となった書籍「超クソゲー」の著者の一人である阿部広樹。
『A_prompt.』は黒背景に、文章の所々でフォントの色・サイズ変える特徴的な文体を用いていた。
これは「ABC体」(ABC文体、ABC文調、ABC文法)と呼ばれ、この文体が後に「フォント弄り」というテキストサイトで多く用いられた手法の原型になる。
1998年に開設したテキストサイトとして他には、後にライトノベル作家となり「ゼロの使い魔」を書いたヤマグチノボルの『HEXAGON』。
ホモゲーネタで話題となり、痛い系サイトを引っ張った『兄貴の館』、痛い系サイトの一角である『G-LABO』が挙げられる。
■『A_prompt.』:http://www.aikis.or.jp/~abc/
■『HEXAGON』:http://isweb4.infoseek.co.jp/play/gonzui/
■『兄貴の館』:http://webclub.kcom.ne.jp/mb/watan/
◆個人ニュースサイト界の動向
1998年10月8日に開設した『SMALLNEWS!』は”嫌われないサイト構成”をコンセプトとしていた。 管理人の個性を出すのは必要最低限に止めたり、サイトデザインはどのブラウザのどのサイズでも崩れないものにし、 一部の人が悲しい思いをするようなネタは取り扱わない。閲覧者の事を考えたサイトであった。『SMALLNEWS!』は個人ニュースサイトのお手本として、後発の個人ニュースサイトに大きな影響を与えたサイトである。 1998年に開設した個人ニュースサイトとして他には『朝目新聞』や『水無月城』(後の『水無月情報ページ』)が挙げられる。
■『SMALLNEWS!』:http://www.smallnews.net/
■『水無月情報ページ』:http://www.tcp-ip.or.jp/~minaduki/
◆その他
1998年1月:『なみかれ』開設。「涙枯れるまで泣く方がいいかも」の略。質問項目(お題)に対し回答者は一言コメント(ネタ)で返す形式の掲示板。
1998年1月15日:『廃墟ファン』開設。廃墟系サイトの先駆け。後発の廃墟系サイトに影響を与えた。
1998年3月28日:『ICQ道場』開設。「アッオー」の着信音でお馴染み?なイスラエルのインスタントメッセンジャーソフト「ICQ」を解説したサイト。日本語化パッチが置いてあり、「ICQを使うならまずこのサイトを見ろ」といわれるサイト。
なお、開設日の”1998年3月28日”はサイトを全面更新した日(本人曰く「マジメに作り始めた日」)。厳密な開設日は1997年末。
1998年3月?:『ひょろびり』開設。私書箱。ひょろっと歩くとびりっと破れますの略らしい?。
『BlackBOX』の一時閉鎖を受け、復活までの繋ぎとして作られた私書箱だといわれている。
1998年6月6日:『ほぼ日刊イトイ新聞』開設。糸井重里の個人サイト。ほぼ日手帳がヒット。
1998年6月7日:『兄貴の館』開設。有名サイトが2つある『兄貴の館』の一つ。「絶対サポセン黙示録」で有名な方。サポートセンターの楽しく悲しく腹立たしいお話。
1998年6月8日:『BM98's ROOM』開設。やねうらおが作ったビートマニアシミュレーター「BM98」を公開。 BM98は人気となり、数多くのBMSファイル(BM98用の音声ファイル)が作られたのだが 同年8月に公開中止。
1998年7月17日:『悶えろ!!モエプロゲッターズ』開設。伝説として語り継がれるサイト。ファミコンソフト「燃えろプロ野球」のカセットをひたすら買い集めて、その本数は2500本以上。
この行為だけでも意味がわからないのだが、収集○○本突破記念企画が更にぶっ飛んでる。
集めた燃えプロのカセットで富士山を作ったり、五重塔を作ったり、後楽園球場を作ったり。この人にしか出来ない企画で”これぞまさに個人サイト”といえるサイトだった。
1998年7月17日?:『大西科学』開設。雑文サイト。雑文館亡き後の雑文界において、その中心的なサイトの一つ。
1998年9月11日:『Britannia 観光案内所』開設。後発のMMORPGファンサイトの参考となった、ウルティマオンライン総合情報サイト。
1998年10月18日:『ゲーマーズターミナル』開設。ゲーム系個人サイトのサーチエンジン。
1998年10月28日:『復元プロジェクト』開設。統合アーカイバ「RarUty」を公開。
RarUtyは統合アーカイバの中で一番有名なソフト。RarUtyの影響を受けて「Malty」「WARUty」「詩子様」が生まれた。
Riz,Jydivide,御茶義理,ぽこにゃん,分割くん,HamaEvolution,JpegDirectAnnex,クローキングBMP,うそマップ,NOISE,BitmapPackager,インプラントGIFの偽装・分割に対応。
割れ物をアップロードしていたサイトはファイルに偽装をかけており、ダウンロードしても対応ソフトを使って偽装を解かないとファイルは使えなかった。
■『廃墟ファン』:http://member.nifty.ne.jp/ruinfan/ruintop.html
■『ICQ道場』:http://pocketstudio.jp/icq/
■『ほぼ日刊イトイ新聞』:http://1101.com/index0.html
■「絶対サポセン黙示録」:http://www.din.or.jp/~f-aniki/sc/index.htm
■『悶えろ!!モエプロゲッターズ』:http://www.ne.jp/asahi/moe/pro/
■『大西科学』:http://onisci.com/
■『Britannia 観光案内所』:http://member.nifty.ne.jp/kamurai/
■『ゲーマーズターミナル』:http://www.gamersterminal.com/
■「RarUty」(ソフトウェア)
1999年(平成11年)
『あめぞう』の終わりと『2ちゃんねる』の始まり
▼主な出来事
iモードがサービス開始、 CompJapan事件、 東芝サポート事件、 『さるさる日記』サービス開始、 ADSLサービス始まる、 『あめぞう』の閉鎖と『2ちゃんねる』の開設、 『東方幻想空間 博麗神社』開設、 『魔法のiらんど』サービス開始、 テキストサイト界の動向、 個人ニュースサイト界の動向、 ウェブアニメーションの動向
◆iモードがサービス開始
1999年2月22日、NTTドコモは携帯電話向けインターネット接続サービス「iモード」を開始した。
iモードの一番の売りはメール機能。また、ウェブにアクセス可能。そして利用料が時間ではなくパケット量で決まった点が重要だった。これは実質的なデータ量課金である。
auは「EZaccess(後のEZweb)」で追従した。
尤も、iモードは限界のあるサービスだった。ウェブにアクセス可能といってもCompact HTMLで記述したり容量が小さいサイトしか見れなかった。
通常のHTMLで記述されたウェブページも表示出来る携帯電話、そしてスマートフォンの登場によってiモードの役割は失われていった。
◆CompJapan事件
『Vector』で公開されたソフトウェアに「新メモリ最適化ツール」というものがあった。制作者は『Comp Japan』。
価格900円のシェアウェアであり、メモリ内のデータ最適化を謳った。このソフトだが実は全く効果が無く、加算と減算を規定回数繰り返しているだけのとんでもない代物であった。
1999年1月20日に『Vector』で公開後、2月には『Comp Japan』のユーザーサポート掲示板で、公開が無いのではと指摘をされ始めた。
2月13日、『Comp Japan』は掲示板で「このソフトはインチキではない」とコメント。ユーザーからは動作原理を説明しろと書かれたが、『Comp Japan』は拒否。
2月20日、『RADICA EXPRESS』が「詐欺?機能しないシェアウエア」としてこの出来事を紹介。
2月23日、『Comp Japan』は「ソフトの効果を確証する物が無い」として謝罪した。
2月28日、『Comp Japan』はソースコードを公開。最適化する機構は搭載しておりませんとコメントし、謝罪した。
◆東芝サポート事件
1999年6月3日、『東芝のアフターサービスについて』というサイトが開設した。 副題として〈東芝本社社員の暴言に対して、謝罪を求めます〉とある通り、管理人であるAkkyが東芝に対して謝罪を要求するサイトである。 Akkyは購入した東芝製ビデオデッキに不具合があるとして、東芝のサービスセンターに電話したのだがたらい回しになり、 結果として東芝社員から暴言を吐かれた。この経緯をサイトに書き、東芝の対応を非難したのである。サイトに記載されていた、東芝社員から暴言を吐かれるまでの経緯は下記になる。
- 1998年12月28日:東芝製ビデオデッキARENA(A-F88型)を2台購入。S-VHSで録画したビデオテープを再生すると、どのテープを再生しても必ずホワイトノイズが飛び交うことに気が付いた。2台とも同じ症状であった。
- 1999年1月7日:説明書に記載のお客様相談センターに電話。お客様相談センターは東芝のサービスセンターに電話せよと回答。 そこでサービスセンターに電話をすると「2台とも同じ症状であるから単なる製造不良とは思えない。 交換が必要になると思うので販売店経由にしたほうがいい」とアドバイスされ、販売店のサービス窓口経由で東芝のサービスマンを派遣してもらう。
- 1999年1月8日:東芝のサービス会社からサービスマンが来て症状を確認。サービスマンは2台とも同じ症状を示す事と東芝製旧型ビデオデッキではホワイトノイズが出ない事を確認した。 サービスマンは「テープをお預かりして調べてみます」と言った。
- その後、埼玉県の東芝深谷工場から「症状が確認できました。今から改善を図ります」という留守番電話が入っていた。 Akkyは「初期不良なら別のA-F88に交換してもらうし、A-F88の設計上の問題と言うことなら、別の機種に交換してもらいます。何れも販売店と相談するので、診断結果を連絡して下さい」とファックスを送った。
- 1999年2月18日:Akkyは東芝ビデオプロダクツジャパンに電話し、進捗を確認しようとしたところ、電話に出た男は乱暴な口調で「なんで電話して来るんだ!」等畳み掛けるように怒鳴りつけてきた。しかも肝心のビデオデッキについては何も触れなかった。 また、「電気製品が古くなると修理できなくて当たり前」「買ったばかりの新品でも痛んでいることがある。販売店で眠ってる商品だってある」と口にした。 Akkyは「貴方では話にならないから他の人と代わって下さい」と2度言い、東芝は電話保留後に他の担当に代えたのだが、Akkyは保留の間に録音を始めた。 代わったのは東芝本社の渉外監理室所属の社員であった。東芝が総会屋対策として設置した部署である。 担当が変わってからも暴言は続いた。「お宅ヒマでしょ?」「テープの一本・二本で」「屁理屈ばかり」「お宅みたいなのはお客さんじゃない。クレーマーっちゅっうの」 「人間も寿命があるように、商品にも寿命がある」「東芝の本社で売ってる訳じゃない」
- 同日、Akkyは東芝の西室社長宛に手紙を送った。内容は「1.処置の内容について問い合わせている者に対して、暴言を浴びせるのは何故か?」 「2.東芝社員の方の言動は非礼に過ぎるだけでなく、買ったばかりの新品でも壊れていることがあるとかデタラメだと思う」 「3.私の、御社に対する希望は誠意を見せろと言う事にしてもらってもよい。但し、その誠意の内容は、無礼な言葉の数々を取消・謝罪していただくこと」。 社長宛に送ったからといって、社長自身が読む事は期待しておらず、意図としては社長宛なら然るべき責任者の元に回るだろうという事である。 然し、返信は来なかった。
こういった経緯があり、Akkyは1999年6月3日に『東芝のアフターサービスについて』を開設した。
なお、修理された当該ビデオデッキは実用に堪えるレベルにはなっていた。
つまりビデオデッキうんぬんではなく、東芝社員の暴言を謝罪してほしいというのがこのサイトの趣旨である。
ビデオデッキの技術的な問題については説明だけあればいいとしている。
さて、このサイトは今までに前例のない斬新な手を使ってきた。1999年2月18日に録音した会話の音声データをRealPlayer形式でサイトにアップロードしたのである。
これにより、東芝社員から暴言を吐かれるという体験がサイト閲覧者に共有され、Akkyの言い分に説得力を持たせた。サイトのアクセス数は400万に達した。
週刊ダイヤモンド、週刊宝石、週刊読売、週刊文春、週刊朝日、MacFan、財界展望、突撃インターネットPC、SPA!がこの件について取り上げ、
個人サイトでは『LINC』『悪徳商法マニアックス』が取り上げた
1999年7月15日、東芝は『東芝のアフターサービスについて』の一部削除を求める仮処分を福岡地裁に申請した。
1999年7月19日、東芝はプレスリリースを出した。その中では
「当該ビデオデッキの改修についてお客様の要請に対し誠意をもって最善の対応をした。品質・性能とも問題がなく、改修した後も、画質の低下はない」
としたが、
「製品改修後、お客様からの電話でのお問い合わせに対応した担当者の言葉の中で、お客様に対する態度としては、礼を失した不適当な発言があった」
「いかなる事情があろうとも、 あってはならないものであり、真摯に反省している」
「お客様に多大なご迷惑をおかけし不愉快なお気持ちにさせたことにつきまして、心よりお詫びする」
とし、担当者の不適当な発言は認め、謝罪した(*7A)。福岡地裁に申請した仮処分は取り下げた。
1999年7月27日、時事通信は[Akkyを中傷するインターネット上の匿名の書き込みが東芝社内から発信されていた]と書いた。
1999年8月、週刊文春は、Akkyが名うての苦情屋だったという内容の記事を掲載。
Akkyが他の製品でも販売店であるベスト電器に様々なクレームをし、総額253万円の返金をさせているとした。
これはAkkyが否定し、2008年にはベスト電器もこれを否定した。
1999年9月、週刊文春は、Akkyが富士通関連会社課長を退職に追い込んだという記事を掲載した。これにAkkyは反応しなかった。
1999年10月14日を最後に『東芝のアフターサービスについて』の更新は止まった。
一連の出来事は、[一個人が大企業を謝罪させ、ウェブの力を見せつけた大事件]と評され(*7B)、「東芝サポート事件」「東芝クレーマー事件」と呼ばれた。
2009年7月、Akkyは窃盗容疑で逮捕された。
■『東芝のアフターサービスについて』:http://member.nifty.ne.jp/AKKY/
*7A:VTRのアフターサービス問題について(東芝)
*7B:LINC―東芝問題専用ページ(LINC)
資料:音声データ
◆『さるさる日記』サービス開始
1999年6月18日、フォーバルは『さるさる日記』のサービスを開始した。
レンタルウェブ日記サービスであり、その草分け的存在。 吉野家コピペはさるさる日記の一つ『Not Found』から生まれた。
まだ各社のブログサービスが始まる前であり、コメント欄すらない非常に原始的なシステムではあるが、人気のある日記を多数輩出した。
代表的な日記に『きっこの日記』『勝谷誠彦の××な日々』『貴様ら!俺の言うことを聞いてみませんか?』『毎日更新!奥山のオルタナティヴ31歳ガン闘病記』が挙げられる。
2004年8月4日にフォーバルがグローバルメディアオンラインの子会社となった後、2011年6月30日に『さるさる日記』はサービスを終了した。
■『さるさる日記』:http://www3.diary.ne.jp/
◆ADSLサービス始まる
1999年9月1日、川中島町有線放送とJANISネットが長野市川中島町有線地区を対象にADSLサービスを上り272kbps、下り1.5Mbpsで開始した。月額料金5,500円。 これはNTTや東京めたりっく通信よりも開始時期が早い。 NTTがADSLサービスを開始したのは1999年12月に大分市の一部から、東京めたりっく通信がADSLサービスを開始したのは2000年1月に東京23区内からである。 何故日本で長野市川中島町という田舎からADSLのサービスが始まったのかというと、ADSLの実験に有線放送電話網が使われていたからである。 有線放送電話とは地域内の固定電話兼放送設備であり、農業協同組合・漁業協同組合・市町村によって設置されていた。
◆『あめぞう』の閉鎖と『2ちゃんねる』の開設
1999年8月から10月、『あめぞう』に激震が走る。スクリプトによる荒らしで「あめぞうウイルス」という名のスレッドが大量発生し、掲示板を占拠していったのである。
あめぞうといえばもう半ば伝説ともなりつつありますが当時で言えば掲示板としては圧倒的な規模を誇っていました、というかコミュニティを遡ればアニメに限らず必ずあめぞうにたどり着くのではないかというくらいのカリスマ掲示板でした。
もちろんそれ以前にも『ぁゃιぃ』や『なみかれ』など今でも名前が挙がる超有名掲示板はあったのですがアニメとは関係ないので今回は省きます。
それに規模が違いましたさすがに今をときめく2chには一歩ゆずりますが一日に訪れる人数は10万とも20万とも言われ毎日のように煽り、喧嘩、恐喝、脅し、攻撃、詐欺、犯罪、変態、基地外が咲き乱れ人の心の奥底にある闇をまざまざと見せつけていました、
「爆弾を探しています」
というスレッドが建つとすかさず
「メール下さい、料金は相談応~~」
などというレスが本気で書き込まれ厨房がまったく煽らずに(当時厨房という言葉は無かったのです)そのスレッドは下がっていく・・・・こんな所でした、厨房が極めて少なくなおかつさらに規制の少ない2chをイメージしてみてください、そんな所です。
今の2chとは違い初心者がそう簡単に入り込める場所ではなかったのでそれが真性厨房の量産を抑え掲示板の質を保っていました。
早わかりアニメ掲示板の歴史前編(アニメ∞座談会):http://anitou.honesto.net/hayawakari.htm
1999年夏ここが事実上のあめぞう全盛期です、少なくとも人数だけ見れば。 もちろん2chは1999年春頃からありましたのでどんどん勢力を拡大しつつありましたが今がひとつ伸び悩んでいました、やはり当時としては2chはあめぞうの二番煎じという感じが強くてあめぞうに行っていた人は2chには敵対心を持っていたのです。
HiBBS(スレッドの題名が上に表示される掲示板の原型、あめぞうを含めほぼすべてのスレッド表示式の掲示板はこれを利用したものと思われる)を利用した巨大コミュニティと言えばあめぞうが元祖本家本元(なみかれを挙げる方もいるかもしれませんが、今回はアングラコラムではないのでm(_ _)m)です、ですが2chが現れるまで誰も真似はしていなかったんです。
まあ色んな要因があったでしょうね、なんだかんだ言ってみんなあめぞうに遠慮していたというのはあると思います、自分の勝手な想像ですがやはりあめぞうに敬意を払っていたんじゃないでしょうか。
あめぞうに来ていた人の中にはあめぞうさん(あめぞう管理人)よりもCGIの知識がある優秀なプログラマーなんてたくさんいたはずですし、作ろうと思えば簡単に作れたはずなんですよ、さらにもっと性能がいいものをね(事実あめぞうさんはCGIの知識が無い事に定評がある管理人でした;)、でもできなかった。
そこに当時学生だったひろゆきさんがサラっとそっくりな掲示板を設置してしまったわけです、しかも本家より性能がいい物を・・・当然、怒り、嫉妬、妬み、警戒もあったでしょうし何よりひろゆきさんを嫌ってる勢力ってのがあめぞうにはあったんですよ。
そして終わりは唐突に訪れます1999年10月下旬(ぐらいだったと思う、記憶曖昧;、裏が取れたら加筆するかも)あめぞうに激震が走ります、一部の掲示板であめぞうウイルスという名のスレッドが増殖をはじめたのです。
実は自分はその瞬間をリアルタイムで見ていたのですが、まさに圧巻な光景でした、どんどん「あめぞうウイルス」という題名のスレッドが増殖していくのです、僅かに生き残っているスレッドではスキルの高い利用者がこの異常事態をどのように打開するか激しく議論していました。
自分は別にあめざー(当時あめぞうをこよなく愛する人たちをこう読んだのです、ちなみに2chを愛する人たちは2ちゃんねらーというらしいですが言いづらいのかあまり流行りませんでしたね)ではなかったので傍観者でしたが掲示板とはかくも脆いものかと思いました。
なんたってあめぞうですよあ・め・ぞ・うですよ、当時のあめぞうといったらネットの大御所で、スラム街、はきだめ、たんつぼ、基地外収容所、隔離病棟、便所のらくがき、ネット墓場と呼ばれ(え、呼ばれてないって(^^;)あめざーは凶暴かつ凶悪でリンクされた掲示板をぺんぺん草も残らぬほど完璧に駆逐し、無くなってもミラーを立ち上げ、骨までしゃぶり尽すといった外道ぶり。そのあめぞうが手も足もでません(管理人が何もしないのだから当然;)、僅か数時間、、、一晩のうちにネット史上最悪の外道掲示板は消滅しました、壊れゆくあめぞうを目に人々は一体何を感じたのでしょうか?
一つの歴史の終焉でした・・・・。
早わかりアニメ掲示板の歴史中編(アニメ∞座談会):http://anitou.honesto.net/hayawakari2.htm
『あめぞう』は復旧の兆しすら見せなかった。そして『あめぞう』の代わりとして立ち位置を確保したのが、あめぞう掲示板の常連だった ひろゆき が1999年5月30日に立ち上げた『2ちゃんねる』であった。
そんでもって、、 投稿者:ひろゆき 投稿日:99/05/30(Sun)12:42
読者投稿欄に宣伝です。
あめぞう掲示板っぽいものをつくりました。
どうでしょう?
どうかな?
どきどき
http://bohe.virtualave.net/。
05月30日(日)12時21分41秒 05月30日(日)12時21分41秒
あめぞう2チャンネル<勝手に
1
ひろゆき
どうも、ご無沙汰してます。ひろゆきです。
実は、あめぞうさんに無断であめぞう掲示板っぽいものをつくりました。
事後承諾ですみません。
http://bohe.virtualave.net/
スレッドも最新の投稿が上がるようになっており、過去のレスも見れるようにしました。
使い勝手は一緒だと思います。というか、一緒になるように苦労しました。
あめぞう掲示板で没になった企画「ダメ人間@あめぞう」「地方@あめぞう」とか
そういうあめぞうさんのお眼鏡にかなわなかったジャンルの掲示板にしようかと
思ってます。 というわけで、作りたいジャンル募集!!
あめぞう住人が『2ちゃんねる』に移住していき、『あめぞう』を超える存在になった。
“2ちゃんねる”は“あめぞう”のパクリ
これは、ひろゆき氏が永遠に背負わねばならない十字架だ。
マルチスレッドフロート型掲示板…人々は今それを“2ちゃんねる型掲示板”と呼ぶが正しくは“あめぞう型掲示板”である。いま、日本の掲示板界を席巻しているマルチスレッドフロート型掲示板とは何か?それはサーバを圧迫する負荷の化け物である。
昔々、“あめぞう”という巨大匿名掲示板があった。それは重くていつも落ちていた掲示板だったという。
あめぞうは割り物リンク集からはじまり、やがて大規模掲示板群の道を歩み、そして画期的なマルチスレッドフロート型掲示板を生み出した。98年から99年の期間、そこは電網界の覇者となっていた。
だが、肥大化したあめぞう掲示板ではあめぞうウィルスの蔓延、サーバ過負荷による落ちまくり、そして管理人のあめぞう氏の個人情報の流出などなど様々な問題が噴出し、その最中にあめぞう氏は謎の失踪を遂げ、完全放置プレイになったあめぞう掲示板は混乱の中で崩壊する。
その混乱の渦中に、あめぞう掲示板のマルチスレッドフロート型掲示板を取り入れ、悪く言う人によってはパクって、ひとりの男が掲示板群を立ち上げた。それこそが“2ちゃんねる”である。そして、その男は“ひろゆき”というあめぞう掲示板の固定ハンだった。ギャグが寒い男だったという…
2ちゃんねるは初期には不安定なあめぞう掲示板の避難所として使われ(2ちゃんねるの語源は「あめぞうのサブ」であったというのが学会の定説である)、ひろゆき氏の24時間どこにでも出てくると言われたこまめなレスにより、大量のあめぞう固定ハンを取り込み、あめぞう掲示板のマルチスレッドフロート型掲示板と大量のあめぞうユーザーを資本に、今日の地位を築いたのである。
ひろゆきの十字架(真ザ・バトルウォッチャー):http://hpcgi3.nifty.com/BWP_XP/diary.cgi?date=20011003
2000年3月3日、『あめぞう』は閉鎖した。『あめぞう』の避難所・後継として『あめぞう(仮)』『あめざーねっと』『あめざーねっとII』『あめざーねっとIII』等が作られた。
さて、大規模掲示板群サイトの主役に立った『2ちゃんねる』であるが、この掲示板群はただの掲示板に止まらなかった。ウェブ社会の中心ではないが、どのウェブ社会にも多かれ少なかれ関わりを持つ存在になった。
「テキストサイト界」「個人ニュース界」「FLASH動画」「ブログ圏」「ニコニコ動画」、他にも……
各ジャンルのウェブ社会の上にかかっている雲のような存在。その雲は時に恵みの雨を降らし、時に嵐で界隈を荒らした。
00年代のウェブ社会は『2ちゃんねる』無しには語れない、そんな存在に『2ちゃんねる』はなっていった。
■『2ちゃんねる』:http://www.2ch.net/
■『内外電網情勢の回顧と展望』に書かれた『あやしいわーるど』『あめぞう』『2ちゃんねる』の比較表:http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Oakland/8449/2000/2-4.html
◆『東方幻想空間 博麗神社』開設。
90年代に始まり、00年代に大きな成果を上げたゲーム制作同人サークルが3つある。一つは「渡辺製作所」、一つは「TYPE-MOON」、そして「上海アリス幻樂団」である。 上海アリス幻樂団は東方Projectとして出している弾幕シューティングゲーム「東方〇〇」が、その完成度と魅力的なキャラクターで大ヒット。 1999年12月8日に開設した『東方幻想空間 博麗神社』は上海アリス幻樂団のサイトである。東方という存在は、一同人ゲームから一ジャンルにまで成長し、 上海アリス幻樂団のみならず、他の同人作家等から東方のキャラクターを使ったゲーム、東方のBGMアレンジ、東方のキャラクターを使った動画が多数作成された。 2020年代には東方のキャラクターを使った所謂「ゆっくり動画」が『YouTube』で一大ジャンルになっている事が東方というの存在の偉大さを物語っている。
■『東方幻想空間 博麗神社』:http://www16.big.or.jp/~zun/
◆『魔法のiらんど』サービス開始
1999年12月12日、『魔法のiらんど』がサービスを開始した。iモード向けの無料ホームページサービス。iモード向け着メロ配信やEZWeb向けのサービスもあった。 携帯電話向けサービスだが、ケータイ小説のブームを経て小説投稿サイトとして変化する事で携帯電話衰退の波に飲み込まれなかった。『魔法のiらんど』に投稿されたケータイ小説として「天使がくれたもの」「恋空」「赤い糸」が挙げられる。
■『魔法のiらんど』:http://ip.tosp.co.jp/
◆テキストサイト界の動向
1999年1月21日に開設した『ろじっくぱらだいす』はテキストサイト界の最重要サイトである。
毎日更新、それを20年以上継続するという驚愕すべき個人サイトである。短文で、軽くて、気楽に楽しめるサイト。
そして『ろじっくぱらだいす』を中心とした、非モテによる自虐ネタが得意なサイト群が「痛い系」である。
痛い系の象徴的な企画は1999年と2000年に『ろじっくぱらだいす』が企画した、非モテ系の祭典「クリスマス殲滅委員会」である。
「クリスマスにネットやる独り者ってどれくらい居るのだろう?」というワタナベの疑問から始まったこの企画は、
クリスマスにネットをやるサイト管理人を募集し、クリスマス殲滅委員会としてみんなでクリスマスイブに怒涛のサイト更新をしたのである。
1999年に開設した他のテキストサイトとしては、妄想させてこの人の右に出る者はいないといわれた『一流ホームページ』や『MIZUHAの憂鬱』、2002年に「テキストサイト大全」を著した『かまくら』等が挙げられる。
■『ろじっくぱらだいす』:http://www.juno.dti.ne.jp/~logicp/
■『一流ホームページ』:http://www.vinet.or.jp/~katsu/
◆個人ニュースサイト界の動向
1999年5月26日に開設した『裏ニュース!』は個人ニュースサイトの中でも特にアクセス数が大きかったサイトである。
内容はサイト名が示す通りアングラ系の話題が中心で、CDライティングソフトや偽装ソフト・統合アーカイバ・エミュレータ等であった。
管理人の文才や嗅覚の鋭さもあって個人ニュースサイトの最大手にのし上がっていった。但し、『裏ニュース!』を個人サイトとして扱っていいかには議論の余地がある。
1999年1月に開設した『TECHSIDE.NET』はゲーム・PC・MP3・DVDの情報を扱ったサイト。7月に開設した『sawadaspecial.com』オタク系全般。
『TECHSIDE.NET』と『sawadaspecial.com』は00年代始めまで大手サイトとして存在感を発揮した。
10月に開設した『なりなりヘッドライン!』は200~300のニュースサイトをチェックして毎日早朝から晩まで一日5回更新するという驚異のサイト。後に商業サイト『Narinari.com』になった。
1999年に開設した他の個人ニュースサイトとしては
『変人窟』『J-oの日記』『MOON PHASE』『Kawakawa-19 旬』『useDDIpocket』『ほんわかキリン本店』等が挙げられる。
■『裏ニュース!』:http://www.uranews.com/
■『TECHSIDE.NET』:http://www.iris.dti.ne.jp/~spec/
■『sawadaspecial.com』:http://sawadaspecial.com/
■『なりなりヘッドライン!』:http://www.narinari.com/
■『変人窟』:http://www.henjinkutsu.net/
■『MOON PHASE』:http://www.moonphase.cc/
■『useDDIpocket』:http://kamo.pos.to/dpoke/
◆ウェブアニメーションの動向
1990年代のウェブは基本的に文章の世界である。通信回線が遅かった当時。画像も動画も使われていたが制限が多かった。
そんな中でも、個人製作の動画をウェブにアップロードする時代の萌芽がこの年にあった。
1999年6月23日に開設した『Baka-Fla』はFlash動画を募集するページ。
Flashを使っていかにバカをやるかを競うという企画。ここの投稿者にルンパロ、もりのあるじ、青池良輔がいた。
画像ファイルフォーマットのGIFは、画像を連続で表示していく事によるアニメーションが可能である。
1999年7月1日に開設した『GIFアニメ掲示板』(→GIFアニメ道場→日本GIFアニメ連合)は
GIFを使った動画の投稿掲示板である。ここの投稿者には のすふぇらとぅ がいた。
■『Baka-Fla』:http://www.flash-jp.com/bakafla/
■『日本GIFアニメ連合』:http://r1.ugfree.to/~gifanimation/
◆その他
1999年1月26日:『我思う、故にラーメン』開設。
1999年2月6日:『日記圏』開設。登録型ウェブ日記リンク集。『日記才人』『ReadMe!JAPAN』と比べて地味な存在。
1999年4月18日:『南条あやの保護室』開設。『町田あかねのおクスリ研究所』の人気ページであった「現役女子高生あやちゃんのお部屋」を独立させる為に開設したサイト。
ここで南条あやの日記を連載する予定だった。然し、開設作業中の1999年3月30日に南条あやは向精神薬中毒で死亡。知人が作業を引継ぎ開設した。
1999年4月:『自動アンケート作成』開設。前身サイトは『公開投票場』。「私書箱」の系列。後に多数の亜流アンケートサイトが生まれた。
1999年4月?:「Iria」公開。国産ダウンロードソフト。アングラ界隈でよく使われた。アングラで利用されていたレンタルスペース「the globe」がjpドメイン弾きを実施し、ファイルをダウンロードできなくなった現象、通称「地球病」にいち早く対応し人気になった。
「homestead」の時間と共にURLがにランダムに変化する仕様にも対応した。後継ソフトとして「Irvine」が作られた。
1999年9月30日:『みんなきてKOIKOI』開設。「お湯以外でカップメンを作る!そして食う!!」で100種類試した脅威の実験系テキストサイト。
1999年10月1日:『発言小町』開設。読売新聞が運営する掲示板。女性がターゲット。トピ主と呼ばれる投稿者が悩みを投稿し、閲覧者の意見を求める形。
実態としては自分勝手な相談も多く、その結果として『2ちゃんねる』の掲示版、2ちゃんねるまとめサイトで笑いのネタにされることも多い。
1999年10月15日:『秘境駅へ行こう!』開設。人があまり訪れない、簡単には到達できない駅のレポート。「秘境駅」という言葉を世に広めたサイト。
1999年12月12日:『テキスト庵』開設。登録型ウェブ日記リンク集。『日記才人』『ReadMe!JAPAN』と比べて地味だが手堅い運営。『日記才人』『ReadMe!JAPAN』『日記圏』が閉鎖した後も2011年まで『テキスト庵』は存在し続けた。
■『我思う、故にラーメン』:http://www003.upp.so-net.ne.jp/warera/
■『日記圏』:http://www.age.ne.jp/x/rentaro/nikken/
■『南条あやの保護室』:http://nanjouaya.com/hogoshitsu/memory/index.html
■「Iria」(ソフトウェア)
■『みんなきてKOIKOI』:http://members.ytv.home.ne.jp/cupmen/
■『発言小町』:http://komachi.yomiuri.co.jp/
■『秘境駅へ行こう!』:http://hp1.cyberstation.ne.jp/hikyoueki/
■『テキスト庵』:http://www.spacehorn.com/text/
2000年(平成12年)
モナー誕生
▼主な出来事
2ch系AAキャラクターの誕生、 西鉄バスジャック事件、 フレッツ・ISDN本格提供開始、 ファミコンロムイメージ配布サイトの管理人逮捕、 『Google』日本語版サービス開始、 『Amazon.co.jp』サービス開始、 インターネット博覧会、 テキストサイト界の動向、 個人ニュースサイト界の動向、 ウェブアニメーションの可能性
◆2ch系AAキャラクターの誕生
2000年1月3日、『2ちゃんねる』で「てすと」というスレッドが立ち、『2ちゃんねる』のマスコット的キャラクター「モナー」となるアスキーアート(AA)が描かれた。

モナーの源流ははっきりとしないのであるが、「てすと」スレッドが立った1月3日がモナーの誕生日とされた。
その二日後にはモナーが『2ちゃんねる』内に広まっており、「オマエモナー」というセリフも確認出来る。
『あやしいわーるど』で源流が発生していた「ギコ猫」も、2000年になって現在のキャラクターが確立。
2000年6月8日、『2ちゃんねる』に「モナー大好き掲示版」(通称:モナー板、モナ板)が新設され、
この掲示板から「ギコ連合王国」「フサギコ漫談」「モナー童話集」「ヒッキーのクリスマス」といった名スレッド・名作が生まれた。
AA作成ツールとして「ギコペ」「Ascii Art Editor」が登場し、AA制作環境も整えられていった。
モナー・ギコ猫・しぃ・モララーという中心的なAAキャラクターから流石兄弟・クックルドゥドゥドゥ・激しく忍者といった新世代AAキャラクターまで数多くのAAキャラクターが『2ちゃんねる』の住民により創造された。
その数の多さは2001年8月6日に開設したAAキャラクター纏めサイト『AA大辞典(仮)』が1900もの数のAAキャラクターを収録した事からも分かる。
数多くのAAキャラクターによる一つの世界が出来上がった。そして、その世界観を舞台にした長編AA物語、Flash動画が作成されていった。
『2ちゃんねる』の掲示板からクリエイティブなものが発生していた00年代。その象徴的な成果物が2ch系AAキャラクターである。
■「Ascii Art Editor」(ソフトウェア)
◆西鉄バスジャック事件
2000年5月3日、西日本鉄道の高速バスわかくす号(佐賀第二合同庁舎発、西鉄天神バスセンター行き)が、刃渡り約40センチの牛刀を持った17歳の少年にバスジャックされた。
少年は乗客に「お前たちの行くところは天神じゃない。地獄だ」と言った。少年は3人を刺し1人が死亡した。
乗客が少しづつ解放されながら広島県まで行き、小谷サービスエリアで機動隊員が窓ガラスを割って突入。少年を捕まえた。
この事件が何故ウェブと関係あるかというと、少年は事件直前、『2ちゃんねる』に犯行予告とも取れるスレッドを立てていたからである。
「佐賀県佐賀市17歳・・・。」というスレッドの>>1には「ネオむぎ茶」というハンドルネームが「ヒヒヒヒヒ」と書いていた。
これが事実上の犯行予告ではないかという事である。
1 名前: ネオむぎ茶 投稿日: 2000/05/03(水) 12:18
ヒヒヒヒヒ
佐賀県佐賀市17歳・・・。:http://mimizun.com/2chlog/youth/www.2ch.net/tako/youth/kako/957/957323893.html
少年は中学校でいじめにあい、高校では不登校になった。『2ちゃんねる』への熱中と家庭内暴力。少年は精神障害者として国立肥前療養所へ入院となった。
少年に外泊許可が降りた際に、少年はこの機会に自分がいじめを受けていた母校の中学校で無差別殺人を行う計画だったが、ゴールデンウィークで休校だった為、バスジャックに切り替え、この事件が発生した。
マスコミは少年が事件前に『2ちゃんねる』でスレッドを立てていたことを報道。『2ちゃんねる』に対して否定的な報道であったが『2ちゃんねる』の知名度を上げる結果になった。
なお、当該事件を報道したニュースステーションで ひろゆき がVTRで登場。そのときの発言がひろゆき語録で一番有名な「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」である。
■「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」
◆フレッツ・ISDN本格提供開始
2000年7月、NTTは完全定額制インターネット接続サービス「フレッツ・ISDN」を開始した。(発表当初の名称は「フレッツ・アイ(FLET'S・Isdn)」)
東京と大阪では1999年11月から先行開始していたが、2000年7月に全国展開していった。
2000年7月18日に「フレッツ・ISDN」に名称変更。テレホーダイユーザーにとって24時間完全定額制は待ちに待っていたサービスであり、契約応募が殺到した。
然し、如何せん速度が64Kbpsと低速であった。より速い定額制サービスであるADSLがすでに始まっており、ISDNは個人契約としては必要とされた期間が短かった。
但し、企業の業務視点ではISDNは重宝され、長く利用され続けた。
NTTは2024年3月31日をもって、全てのエリアで新規・移転の申込受付を終了した。
資料:ISDN回線によるIP接続サービス「フレッツ・アイ」の本格提供に伴う地域拡大及び「フレッツ・オフィス」の提供開始について
(NTT東日本)
資料: フレッツ・アイ,ADSLを後目に大躍進
(ITmedia)
◆ファミコンロムイメージ配布サイトの管理人逮捕
2000年7月4日、ファミコンのロムイメージをサイトにアップロードし配布していたとして、サイト『ファミコン決死隊』の管理人とメンバーが著作権法違反(公衆送信権侵害)の疑いで逮捕される。
告訴会社は任天堂。 逮捕されたメンバーは『ファミコン決死隊』の管理人(27歳)と都内大手プロバイダー派遣社員男性(34歳)・無職の少年(17歳)・コンビニエンスストア店員(21歳)。
『ファミコン決死隊』はメンバーからファミコンソフトを入手し、ロムイメージをサイトにアップロードしていた。
なお、ロムイメージは偽装化されていた(当時の割れサイトでよくあった画像ファイルへの埋め込み)。それでも逮捕されたという事である。
ちなみに『ファミコン決死隊』はメンバーに対し、貢献度で肩書を付けていた。管理人は連隊長、都内大手プロバイダー派遣社員男性は特別相談役、無職の少年は空軍少尉であった。なお隊員は約100人いた。
都内大手プロバイダー派遣社員男性の特別相談役は自身もスーパーファミコンソフトのロムイメージをアップロードし配布していた『労務課の倉庫』の管理人であった(*8A)。
2001年4月25日には『ふくでんの館』の管理人が逮捕された。
*8A:マスコミは当時『ファミコン決死隊』の隊員として4人が逮捕されたという書き方をしていたが、
連隊長が逮捕の8年後に語ったところでは特別相談役は『ファミコン決死隊』の主要メンバーとして逮捕されたわけではなく、
『労務課の倉庫』管理人としてスーパーファミコンソフトのロムイメージをアップロードした事で逮捕された。
資料:インターネット上の組織「ファミコン決死隊」開設者ら4人を逮捕
(ACCS)
■『ファミコン決死隊』:http://bangkok.com/mypage/fami/fami.htm
◆『Google』日本語版サービス開始
2000年8月3日、米Googleは『Google』日本語版サービスのベータ版を公開した。
検索の高速性やキャッシュ機能が評価されたが、日本のアングラ方面では「検索すれば何でも引っかけてくれる」点も話題になった。
何でも引っかけてくれるというのは、
普通のウェブサイトだけではなく例えばファミコンソフト等のロムイメージに代表されるアングラな物まで素直に検索してくれるという事である。
9月12日に日本語版の正式サービスを開始した。
米Googleはスタンフォード大学の大学院生によって1998年9月に設立されたベンチャー企業。後に動画共有サイトからスマートフォンのOSにまで手を伸ばすGoogleもこの頃はまだ検索サービスの会社だった。
急成長中のウェブ上サーチエンジン開発会社Google社(Google Inc.)は、数々の受賞に輝くGoogleサーチエンジンの日本語版のサービス開始を本日発表しました。このサービス拡張により、全世界のユーザーに日本語サイトでの日本語検索が実現します。日本語ユーザーの方々に世界最高のインターネットサーチを体験していただくため、Googleではプリファレンスを設定して、検索のヒントやメッセージも日本語で表示できるようになりました。
この国際化サービスは、Googleのホームページ(http://www.google.com)でご利用いただけます。ここでメニューから希望の言語を選択すると、即座にカスタマイズできます。Googleの十億以上にものぼるウェブページの索引を検索できるほか、15ヶ国語で作成されたウェブサイトの検索が可能になります。言語の選択は、Googleのウェブサイトに次回アクセスするときのために保存も可能です。
Googleの社長兼共同創設者、Sergey Brin氏は次のように語っています。「日本はインターネットユーザーが2700万人と言われる急成長市場の一つで、Googleを日本語で提供できることを本当に嬉しく思います。シンプルさ、包括性、客観性、それに的を得た検索結果への私どものこだわりは、世界のユーザーのニーズを満たしています。きっとGoogleの機能にご満足いただけることと思います。」
Larry PageとSergey Brinが考案したGoogleは、インターネットの世界規模の普及に対応するように設計されています。1998年9月にベータサイトとして開始し、翌年には商業ウェブサイトとしてオンラインスタートを切りました。そのデビュー以来、Googleサーチエンジンは、全世界に熱心なユーザー基盤を築き上げました。この成功は、ワールドワイドウェブの月次アクセス数の大幅な増加、業界からの表彰、そして顧客の支持によって今後も続きます。Googleウェブサイトのアクセス数のほぼ半分は、アメリカ以外のユーザーからのものです。
Googleのサーチエンジンは、インターネット接続機能のあるモバイル電話などワイヤレスデバイスをはじめ、どんなコンピュータでも、シンプルで高速で的を得た検索結果を提供します。そのメリットは優れた操作性、すっきりとしたインターフェース、ユーザーのクエリーに対する的を得た検索結果です。Googleは、一番重要な結果が常に先頭に表示されるように革新的なテクノロジーをベースとしています。Googleの検索サービスの原動力である集中性とテクノロジーを駆使し、Googleはインターネットの拡大と共に向上し続けます。
GOOGLE日本語検索サービスを開始(Google日本語版):http://www.google.com/intl/ja/pressrelease.html
■『Google』日本語版:http://www.google.com/intl/ja/
◆『Amazon.co.jp』サービス開始
2000年11月1日、米『Amazon.com』は日本サービス『Amazon.co.jp』を開始した。 『Amazon.com』は1995年にアメリカでJeffrey Preston Bezosが開店したインターネット書店。後に書籍以外の商品からクラウドサービスにまで手を伸ばすAmazonもこの頃はまだインターネット書店の会社だった。
■『Amazon.co.jp』:http://www.amazon.co.jp/
◆インターネット博覧会
2000年12月31日から一年間、政府主導で「インターネット博覧会」が行われた。通称「インパク」。
e-Japan構想の一環であり、
インターネットの普及を図り、コンテンツの充実を促す事が目的とされた。経済企画庁長官である堺屋太一の発案であった。
堺屋太一は過去に博覧会のプロデューサーとして実績のある人物であり、1990年・花の万博や1992年・セビリア万博に出展したパビリオンで総合プロデューサーを務めた経歴を持っていた。
荒俣宏、糸井重里、石井竜也、栗山英樹、清水ちなみ、田口ランディ、5代目中村勘九郎等の有名人を参加させた。
堺屋太一の「インパクは世界初の試み」という発言は、
1996年に開催された「インターネット1996ワールドエキスポジション」を無視するもの、あるいは知らないものであり、始まる前から失敗を予感させるものであった。
会期中はコンテンツにFlashや画像が多く使われた事から「サイトが重い」と非難され、終わってからは「110億円といわれる税金投入に見合う効果があったのか」と非難された。
また、終了後に各コンテンツを削除した事も非難された。これは当時言われたITの利点「データをサーバー上に残しておけば、いつまでも参照出来る」に反する動きだったからである。
インパクは最終的に503サイトが参加し、アクセス数は約5億であった。
資料:インパクの“失敗”を総括する そして消え去ったインターネット博覧会(ITmedia エンタープライズ)
資料:インターネット博覧会「インパク」はそれからどうなったのか(Timesteps)
補足:当時インパクはライターや評論家から色々と非難されたが、それらは数百億円規模の開発を行うITの大規模プロジェクト経験が無い人間からの意見でしかない事は前提に置く必要がある。
◆テキストサイト界の動向
前年から活況を呈していた痛い系サイトは2000年も勢いを止めず、「第1回痛い度ランキング選手権」や参加サイト数が100を超えた「クリスマス殲滅委員会2000」といった企画が開催された。
『2ちゃんねる』では「ネットウォッチ掲示板」に「■◇◆日記系サイトの裏事情◆◇■」スレッドが立つ。 これが後に「テキストサイトはここで語れ」(通称:テキスレ)となった。
ゴシップネタ的なものからテキストサイト界を案じる真剣な話まで、サイトには書けない・書きづらい話が「ネットウォッチ掲示板」で行われ、直接的に・間接的にテキストサイト界に影響を与えていく。
テキスレの他には「中堅テキストスレで面白いの教えて!」(通称:中堅テキスレ)、「バーチャルネットアイドル総合ウォッチ」(通称:VNIヲチスレ)等が挙げられる。
2000年に開設したテキストサイトとして、後に『オモコロ』の二代目編集長になった『桃色核実験』や『POPOI』『九十九式』『吉田が巨大な物を作ってますよ』が挙げられる。
■『桃色核実験』:http://www007.upp.so-net.ne.jp/ossu_oragokuu/
■『POPOI』:http://www.fsinet.or.jp/~popoi/
◆個人ニュースサイト界の動向
2000年は大物個人ニュースサイトが二つ開設した。一つは2000年4月1日開設の『GIGAZINE』。開設当初はE-ZINE形式であったが、
コンテンツとして羅列型ニュース紹介があった。このニュースの部分がメインコンテンツとなる事で個人ニュースサイト化。
個人ニュースサイトといっても記事の紹介だけではなく、試食レポートや旅レポート等、サイトオリジナルの記事を作り出せる事が『GIGAZINE』の強さである。
個人サイトであったが後に商業化した。
もう一つは9月13日開設の『俺ニュース』。俺ニュースは個人ニュースサイトを巡回し、ネタのURLを取得している。
つまり 個人ニュースサイトが元ネタの個人ニュースサイト。このスタイルは「孫ニュース」と呼ばれ、『俺ニュース』はその最王手サイトである。
サイト開設のきっかけは管理人のtechleが『自動アンケート』でアンテナ低いと煽られた事。
12月に開設した『ホタテプロダクツ』は翌年10月17日から羅列形式でFlash動画について取り上げるようになり、Flashニュースサイト”御三家”の一つとなった
2000年に開設した他の個人ニュースサイトとして『駿河電力』『Intermezzo』『airoplane.net』等が挙げられる。
■『GIGAZINE』:http://keisui.com/GIGAZINE/
■『俺ニュース』:http://www13.xdsl.ne.jp/~techle/
■『ホタテプロダクツ』:http://hotate.s1.xrea.com/
◆ウェブアニメーションの可能性
『GIFアニメ掲示板』で活躍していた のすふぇらとぅ と『Baka-Fla』で活躍していた森野あるじ がいよいよ頭角を表す。
のすふぇらとぅ は『活動漫画館』を開設した。ここで公開したのは一体どれだけのコマを描いているのかと驚愕する滑らかなGIFアニメであった。
森野あるじは『RG-CONSENT』(→RZ-CONSENT→MoRinono)を開設した。ここで公開したのは回転と拡大縮小、右に左に絵を動かすことで空を飛んでいる感が秀逸なFlash動画であった。
『活動漫画館』と『RG-CONSENT』の作成する動画は、ウェブで公開する個人製作アニメーション(ウェブアニメーション)の可能性を示すものであった。そして、可能性は現実化していく。
他には『地獄変.com』で公開された【別府鉄輪地獄変】も可能性を示した作品である。
更にはモナーに代表されるAAキャラクターをFlashで動かした『へっぽこ実験的ホームページ( ̄¬ ̄*)』も開設した。2000年はウェブアニメーションの重要サイトが開設した年であった。
■【機動戦士のんちゃん】(のすふぇらとぅ)『活動漫画館』
■【別府鉄輪地獄変】(青木隆志)『地獄変.com』
■【The Mother Mars 0】(森野あるじ)『RG-CONSENT』
◆その他
2000年1月20日:『百式』開設。海外のアイデアを毎日発信することがコンセプトのサイト。
2000年3月16日:『ふみコミュニティ』サービス開始。小学生から高校生の女子をターゲットにしたコミュニティサイト。通称:ふみコミュ。2003年12月に法人化するほどの人気があった。
コンテンツとしては掲示板、チャット、ホームページの作り方講座、フリー素材集等。SNS化等時代に合わせつつ2017年代までコミュニティサイトとして生き残る。それ以降は女性向けヲタ活情報サイトへリニューアルしたが2020年に消滅。
2000年4月1日:『山さ行がねが』開設。廃道系サイト最大手。廃道、廃線、廃隧道の探索レポート。只の探索レポートではなく、過去の地図や歴史にも触れている。
2000年6月1日:『おめでとう!任天堂』開設。歪んだ任天堂ファンサイト。サードパーティから恐れられる任天堂をヤクザの組に例えるネタは当時よく使われており、このサイトもそのネタ。
山内社長が親分。強面だった今西広報室長が若頭。 今西室長に成りきって質問に答える「教えろ今西さん」や「今西紘史ファンクラブ」「任天堂人物事典」など。
こんなサイトなのに今西広報室長本人にサイトの題字を書いてもらったという。
2000年6月3日:『2編ちゃんねる』開設。後の『megabbs』。『2ちゃんねる』ライクなスレッドフロート型掲示板。
2000年6月14日:『毒吐きネットマナー』開設。【「はじめに」と書いて「肝に銘じろ」と読む】でお馴染み。個人サイト管理人の目線で、閲覧者に気をつけて欲しい事を書き連ねたサイト。
ネットマナーについて書いていると思わせるようなサイト名だが、実態としては 「サイトの注意事項は必ず読め」「掲示板に書き込むときは初めましてとか、お邪魔しますとかぐらい書け」「リンクとブックマークはトップページに貼れ」等、一般的なネットマナーではなく、『毒吐きネットマナー』管理人の個人的な思いが書かれている。
2000年6月21日:『2ちゃんねる研究』開設。2ちゃんねるを中心としたネットウォッチ。CNP(Channel News Project)を立ち上げた。今は2ちゃんねる簡易年表が残っている。
2000年8月1日:『廃墟Explorer』開設。メディアに多数出演している廃墟系サイトの雄。書籍も出している。
2000年8月8日:『エンピツ』開設。レンタルウェブ日記サービス。地味な存在であるものの令和の時代になっても生き続ける。代表的なサイトは『江草 乗の言いたい放題』。
2000年8月18日:『4Gamer.net』開設。ゲームの総合情報サイト。開設当初は洋ゲーが中心。
2000年11月:『CD-R実験室』開設。CD-R、DVD-Rドライブ買いまくりなドライブ購入歴が凄すぎる。圧倒的なドライブ所有数を武器にSafeDiscなどのプロテクトに果敢に挑戦するサイト。
2000年12月1日:『楠木坂コーヒーハウス』開設。嘘ニュースを新聞の記事調に書いたコンテンツ『虚構新聞社』が有名。 嘘だけども本当にありそうなところをついたネタに本気で騙された人も。 ネタで書いたものが現実化してしまった例もある。
■『百式』:http://www.100shiki.com/index.php3
■『ふみコミュニティ』:http://www.fumi23.com/
■『山さ行がねが』:http://yamaiga.com/
■『megabbs』:http://megabbs.com/
■『毒吐きネットマナー』:http://www.botan.sakura.ne.jp/~kannmaru/manner/first.html
■『2ちゃんねる研究』:http://yokohama.cool.ne.jp/sepadenial/
■『廃墟Explorer』:http://www2.ttcn.ne.jp/hexplorer/
■『エンピツ』:http://www.enpitu.ne.jp/
■『4Gamer.net』:http://www.4gamer.net/
■『虚構新聞社』:http://kyoko-np.net/
2001年(平成13年)
テキストサイトブーム
▼主な出来事
テキストサイトブーム、 偽春菜公開停止騒動、 加藤紘一が個人サイトのオフ会に参加、 『All About Japan』開設、 吉野家コピペ誕生、 『スラッシュドットジャパン』開設、 『Wikipedia日本語版』登場、 小泉内閣メールマガジン創刊、 2ちゃんねるスレ紹介サイトの登場、 8月危機と『ふたば☆ちゃんねる』開設、 ブロードバンドの普及加速、 ロリポップ!サービス開始、 ついに逮捕者が出たWinMXと「もうだめぽ」、 田代祭、 『ヤプース!』オープンベータテスト開始、 個人ニュースサイト界の動向、 ウェブアニメーションの動向
◆テキストサイトブーム
2001年の出来事といえば何といっても「テキストサイトブーム」である。
大量のテキストサイトが発生し、『ReadMe!JAPAN』のランキングでもテキストサイトが上位にいた年。
ブームのきっかけは、ある大学生が力試しとして開設したサイトであった。
2001年1月18日に開設した『侍魂』は2月に公開した「ヒットマン事件簿」で早々にスマッシュヒット。
そして3月に公開した「最先端ロボット技術」と「最先端ロボット技術外伝」、所謂「先行者テキスト」が大ヒット。全盛期には一日25万アクセスを記録した。
『侍魂』はフォント弄りを駆使し、改行の使用による間の表現が巧みで読みやすく、漫才やコントのような流れをHTMLテキスト上で実現した。
『侍魂』がウェブに与えた影響はあまりに大きく、模倣したサイトが次々に現れ、それは「侍魂以後」と世代分けされる程であった。
フォント弄りを駆使した侍魂以後世代で、成功したサイトとしては『僕の見た秩序。』が挙げられる。
『僕の見た秩序。』は元々は写真素材+日記サイトで2002年10月までの日記は普通の日記だったのだが11月からフォント弄りを多様するようになり、
11月中には現在のスタイルを確立する。その後は快進撃。連載、ライブ、出版、グッズ販売と勢力的に活動した。
多くのサイトがフォント弄り技法を真似、然し技法を生かせず消えていった中、僕秩はフォント弄りと元々持っていた画像加工技術と組み合わせて僕秩のスタイルを確立した。
2001年2月14日、またも大物サイトが現れる。それは『バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳』であった。
オタク・サブカルネタが得意なこのサイトは、バーチャルな存在である「ちゆ」を管理人とし、文字はピンク色という一見キワモノでありながらも、
濃いオタク・サブカルネタから政治ネタまでこなすという器用さとそれを面白文に加工する技術で、
開設一ヶ月後には大手個人ニュースサイトに取り上げられ始め、あっという間に有名サイトとなった。
更には『侍魂』と同じように模倣サイトが次々に現れた。
それらは『ちゆ12歳』と同じサイトデザインを用い、『ちゆ12歳』と同じようにバーチャルキャラクターを管理人とした。
このようなサイトは「ちゆフォーマット」を使用した「量産型VNI」と呼ばれた。
量産型VNIは『ちよ74歳』が始まりである。量産型VNIが大量発生した事でVNI界と呼ばれる程、テキストサイト界の一大派閥となった。
そして、1999年から活況を迎えていた痛い系サイトもまだまだ人気を持続しており、活発に企画が行われた。
上記の現象はテキストサイトブームと呼ばれた。
2001年に開設したテキストサイトとして、上記の他にはうーさーというキャラクターを使った『宇佐教授の無駄学研究室』、 量産型VNIの一番出世である『本日の厳選モノ茜17歳』(後の『TBN』)、 Flashニュースサイトとして存在感を発揮した『ぺんぎんと~く♪』(後の『エルエル』)等が挙げられる。 特に『宇佐教授の無駄学研究室』の宇佐義大はアニメプロデューサーとして才覚を現し、うーさーはテレビアニメ化された。
■『侍魂』:http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/
■『僕の見た秩序。』:http://www.dfnt.net/
■『バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳』:http://tiyu.tripod.co.jp/
■『ちよ74歳』:http://www.tohgoku.or.jp/~hoimin/
■『本日の厳選モノ茜17歳』:http://www.m-net.ne.jp/~doba/goto/top.htm
■『エルエル』:http://home10.highway.ne.jp/penguin/
■『うーさーのその日暮らし』:http://www.saturn.dti.ne.jp/~wooser/
◆偽春菜公開停止騒動
2001年1月25日、翼システムはソフトウェア 「偽ペルソナウェア with 偽春菜」の制作者である黒衣鯖人に対し偽春菜の公開停止を要求するメールを送った。
これにより「偽春菜騒動」が勃発した。偽春菜騒動を語るにはまず1995年まで遡らなくてはならない。
1995年4月、国立舞鶴工業高等専門学校の学生3人(Nassie, Youi, Aga)が仮想人格エージェントによる感性ヒューマンインタフェースの実現を構想。仮想人格処理系の開発を始める。
1997年10月、この構想を「春菜プロジェクト」として定義。開発メンバーにHiroakiが加入。
1998年10月4日、春菜プロジェクトが制作したソフトウェアを「ペルソナウェア with "春菜"」としてウェブに公開した。フリーソフトであった。
ペルソナウェアとは一言でいえばデスクトップマスコット。デスクトップに春菜という萌えデザインのキャラクター(ペルソナ)を常時立たせておく。
ただ立たせておいたわけではないところに工夫があり、
春菜はインターネット情報を自動取得し、ユーザーと会話するような形でウェブ上のニュースや話題を伝えた。
更にはキャラクターの切り替えが可能。しかもキャラクターは春菜プロジェクトが提供する物だけではなく、
ペルソナ開発キットを公開し、ユーザーが独自のペルソナを作成できる(グラフィック、台詞回し、行動パターンを設定可能)点が斬新であった。
ユーザーにより多くのキャラクターが制作・公開された。ペルソナウェアは1998年窓の杜大賞のインターネット関連部門賞を受賞した。
■ペルソナウェアの紹介
ペルソナウェアは,仮想人格的キャラクター"ペルソナ"をWindowsマシンに住まわせて,何かさせようという多目的かつアバウトなシステムです.
単なるデスクトップアクセサリと違い,ひとつの言語処理系を内包することで自律的な振る舞いを可能とし,さらにペルソナの全データが(プログラム含む)自動的にネットワーク更新可能という,「ネットワーク対応仮想人格処理系」(春菜プロジェクト公式見解).
PersonaWare:http://www2s.biglobe.ne.jp/~nassie/hp3/index.html
■"春菜プロジェクト"の由来
1995年,北近畿の某高等(?)教育機関のある同好会にて, Nassie, Youi, Agaを中心に仮想人格エージェントの開発を目的とする集団 「Lunatic Fish(奇特なおさかな)」が結成されました. これを前身とし, 仮想人格処理系の開発と,その上で仮想人格"春菜"を活躍させることを目的として, もう一人のプログラマであるHiroakiを主要スタッフに加え,「春菜プロジェクト」がいつのまにか結成されました. たぶん1997年のことです.
ちなみに,「仮想人格」の定義は「ユーザがそこに人格があると感じたもの」 で、Nassieが1995年に定義いたしました(なんてアバウトな…)
■では,春菜プロジェクトを一言で説明すると…?
ペルソナウェア・システムおよびペルソナの企画開発・教育・ 広報・開発環境の提供を行う制作集団です.
■春菜プロジェクトの歴史
1995年4月~11月
第1次春菜プロジェクト ---
仮想人格エージェントによる感性ヒューマンインタフェースの実現
1996年1月~10月
第2次春菜プロジェクト ---
仮想人格エージェントによるコンピューティング環境の改善に関する研究
1997年10月~
第3次春菜プロジェクト ---
ペルソナウェア ~ネットワーク更新機能を有する仮想人格処理系~(今回)
実は,今回で春菜プロジェクトは第3次だったりします.
詳細はまた,機会があれば…
スタッフ紹介(PersonaWare):http://www2s.biglobe.ne.jp/~nassie/hp3/staff/index.html
2000年5月25日、『Finite Laboratory』の黒衣鯖人はペルソナウェアによく似た「偽ペルソナウェア with "偽春菜"」を公開した。立ち絵はsaxyunであった。 開発の動機について黒衣鯖人は「ペルソナウェアが正しいコンセプト・良い素材であるのに生かされていない」と語った。 偽春菜を公開することでペルソナウェアのコンセプトの正しさを証明しようとした。
本当はもっとずっと前から作りたいとは思っていた。が、条件が揃わなかった。最後の条件が揃ったのが今年2月ごろ。
動機は、やはり春菜があまりにも凄くなかったことに尽きる。面白いコンセプトを打ち出しながらいつまで経っても進化せず、スケジュールやアラームといったどうでもいいファンクションを付けられ、売りであるネットワーク更新にも大した更新がなく、ニュースを読み切っては黙り込む春菜があまりにも無意味で痛々しかった。凄いものを作れる可能性があったのに、自らそれを破壊した。デスクトップに人を立たせて一体何がしたかったのか?本当に何も考えていなかったのか?
春菜は正しいコンセプトを持っていながら実装不足でデスクトップに立ち続けられなかった。単なる他人の下らないプログラムではなく、あと一歩惜しいところで意味のあるものにならなかったこと、それが腹立たしく悔しかった。実装の不足が生きた素材を殺してしまった。"春菜" は本当は生きて行くはずだった。遺志を継がなくてはならない。
偽ペルソナウェア with 偽春菜 - 開発動機(Finite Laboratory):http://www.cc.rim.or.jp/~finite_l/haruna/motive.html
偽春菜は『2ちゃんねる』や個人サイトで取り上げられ、有名ソフトになった。「偽ペルソナウェア with "偽春菜"」は「あれ以外の何か with "偽春菜」に名称を変更した。
2000年10月7日、ペルソナウェアは転換期を迎えた。有料化である。春菜プロジェクトが法人化され、翼システム配下のプラエセンス株式会社となり、
ペルソナウェアはフリーソフトから有償(2500円)に変わった。
有料化したペルソナウェアにとって、後発であり、フリーソフトであり、機能的に上回り、皮肉った名前を付けてきた偽春菜に対し、いい思いを持っていない事は想像に難くない。
2001年1月25日、翼システムは黒衣鯖人に対し偽春菜の公開停止とサイトで「ペルソナウェア」「春菜」「haruna」その他これらに類似する表示の使用中止を要求するメールを送った。
これを黒衣鯖人はサイトに公開したのである。
前略
1 プラエセンス株式会社(以下「当社」といいます。)は、 「春菜」と称するキャラクター等が登場する「ペルソナウェア」というソフトウェア(以下「当社ソフトウェア」といいます。)にかかる著作権の管理権限を有し、 当社ソフトウェアを、当社の運営にかかるホームページ(URL: http://www.personaware.gr.jp )等にて販売しております。 当社ソフトウェアは、1998年窓の杜大賞インターネット関連部門賞を受賞する等、極めて好評を博しており、 当社ソフトウェアが「ペルソナウェア」という名称、キャラクター「春菜」とともに、広く知られたものであることは貴殿もご承知のことと存じます。
2 当社の調査によれば、貴殿は、「あれ以外の何か with "偽春菜"」と題するホームページ( URL:「 http://www.cc.rim.or.jp/~finite_l/haruna/indexj.html 」。 以下、同ホームページ及びこれにリンクする貴殿の運営にかかるホームページをまとめて「本件ホームページ」といいます。)において、 当社ソフトウェアと類似の内容を有する偽ペルソナウェア「あれ以外の何か with "偽春菜"」と称するソフトウェア(以下「本件ソフトウェア」といいます。)を配信しています。
本件ソフトウェアの「偽春菜」と称するキャラクターは、当社ソフトウェアの「春菜」と称するキャラクターに依拠して作成されたものであることは明らかであり、 貴殿は、本件ソフトウェアにおいて、当社ソフトウェアのキャラクターを、権限なく、翻案ないし改変しています。 これらの行為は、当社ソフトウェアに係る翻案権ないし同一性保持権を侵害するものであり(著作権法27条、20条1項)、 本件ソフトウェアを配信する行為は、著作権侵害行為に該当するものと考えます(同法28条・23条1項)。
3 また、貴殿は、本件ホームページのURLに「haruna」の文字列をそのまま使用し、 また、本件ホームページにおいて、「ペルソナウェア」及び「春菜」の表示を多数使用しています。 これらの表示は、当社ソフトウェアと本件ソフトウェアとの間に誤認混同を惹起するおそれがあるのみならず、 当社ソフトウェアのイメージを低下させるおそれがあり、不正競争防止法2条1項1号又は2号所定の不正競争行為に該当するものと考えます。
4 翼システム株式会社は、商標「ペルソナウェア」につき、商標登録出願第2000-68753号、 同第2000-107661号及び同第2000-100450号を出願済みであり(願書の写しを別にお送りします。)、 本書状をもって、商標法13条の2所定の警告をいたします。
5 したがって、私どもは、貴殿に対し、本件ソフトウェアの配信を直ちに中止すること、 本件ホームページ上又はホームページのURLにおける「ペルソナウェア」、「春菜」、「haruna」その他これらに類似する表示の使用を直ちに中止することを要求します。
6 上記に対する貴殿のご回答を本メール受領後1週間以内に、連絡先: プラエセンス株式会社 中西 巧( nassie@tsubasa.co.jp )宛にお送り下さい。 その折には、貴殿又は経営主体の氏名ないし名称、住所ないし本店をあわせてご連絡下さい。 なお、上記期間内にご回答なき場合は、当社としても、断固たる措置を採用せざるを得ませんので、ご承知置き下さい。
偽ペルソナウェア with 偽春菜(Finite Laboratory):http://www.cc.rim.or.jp/~finite_l/sakura/indexj.html
2001年1月26日、「あれ以外の何か with "偽春菜"」は「あれ以外の何か with "任意"」に名称を変更した。1月31日には偽春菜の公開を停止した。
これに偽春奈ユーザーが怒り、抗議するサイトが複数発生した。また、「あれ以外の何かwith“任意”」ユーザー有志が署名兼公開質問状をプラエセンスに送付した。
ペルソナウェアと同じように偽春菜もペルソナを開発出来るようにしており、この時点で多数のユーザー、多数のペルソナ制作者を抱えていたのである。
2001年2月20日、黒衣鯖人はサイトを閉鎖した。
2001年3月5日、黒衣鯖人は裁判が行われた時の準備を目的として募金を集った。「さくら基金」と名付けられた活動に手を貸したのが佐川豊秋(とよぞう)だった。
佐川豊秋はパームトップPCを製作する企画「Morphy One」を立ち上げ、購入予約者や出資者から約7000万円という巨額の資金を集めたが、期限を過ぎても試作品すら完成していない状況であった。
2001年3月18日、偽春奈の後継ソフト「何か。(仮)」が公開された。制作者は閑馬永空と名乗ったが黒衣鯖人と同一人物であった。立ち絵は すか に変わった。
「何か。(仮)」は2月5日に「何か」、2002年4月14日からは「伺か」に名称が変わった。制作者は閑馬永空→川上新夜→lsと変わったが黒衣鯖人と同一人物であった。
伺かの開発は2002年6月22日で終了。後継ソフトの「しなちく」が公開されたが2003年11月23日を最後に開発が止まった。
伺かの互換ソフトは幾つか制作されたが、その中でも「SSP」が後継ソフトとしての立ち位置を確保し、更新が続けられている。
一方ペルソナウェアは2004年7月に名称を「Chararina」に変えた。2014年1月13日にはiOSとAndroidiOSに対応した「キャラリナ」をリリースした。
2017年12月15日、プラエセンスはキャラリナを終了した。
■「ペルソナウェア with "春菜"」(ソフトウェア)
■「偽ペルソナウェア with "偽春菜"」(ソフトウェア)
◆加藤紘一が個人サイトのオフ会に参加
2001年2月3日、自民党の加藤紘一は個人サイト管理人が主催するオフ会に参加した。
加藤紘一は加藤の乱で破れたりといえど自民党の大物議員。それが個人サイトのオフ会に出るという前代未聞の画期的な出来事だった。
遡る事2000年11月21日、第2次森内閣打倒を目指した加藤紘一・山崎拓による加藤の乱は失敗に終わった。自身が派閥の長を務めていた宏池会は分裂した。
2001年1月26日、加藤紘一のサイト『<<改革の広場>>』は全国行脚のお知らせと応募要項を掲載した。
これに『TERRAZIとゆかいな仲間たち』のTERRAZIが応募してみたというのが加藤紘一がオフ会に参加した経緯である。
このオフ会参加について加藤は自身のサイトで「名刺交換無く、肩書きも無く、こんなふうに人と人とがコミュニケーション出来る事が新鮮な体験であり、大発見であった。カルチャーショックを受けた」
「IT革命が叫ばれているが、この革命の本質は「人と人との深いつながりを可能にする」ことにあるのかも知れない」と感想を書いた。
2月3日、メールで申し込みを受けた、インターネットサイト「TERRAZIとゆかいな仲間たち」の「オフ会」に行ってきました。場所は東京・池袋西口はロサ会館3階の居酒屋「大馬鹿地蔵」。店の名前に臆したわけではありませんが、正直言って、最初は不安感が胸をよぎりました。サイトでの1行知識やコメントでは、どんな会になるのかさっぱり見当がつかなかったからです。
それでも事務所の若いスタッフに強く勧められ、「7割興味」「3割不安感」で会場に向かいました。でも、まだ不安だったのでしょうか、途中で先乗りしている秘書に携帯で様子を聞きましたら、何のことはない、名刺を交換する間もなく、すでに参加者の人たちとなごんでいる、とのことでした。案に違わず、私も会場に入ってすぐに、会場とそのメンバーにうち解けていました。名刺交換もなく、肩書きもなくこんなふうに、人と人とがコミュニケーションできるということは、私にとって、ほとんど初めての新鮮な体験であり、その意味でも大発見でした。カルチャーショックを受けました。
このTERRAZIさんが主宰するサイトが、オフラインの会を開くのは初めてのことで、日にちはこの日と決まっていたのを、私のサイトの「全国行脚受付」を見て応募し、仲間の方々にメールを流したとのことです。「最初は7~10人の参加予定だったのですが、加藤さんが来るというので、こんなに集まったのですよ」と言ってくれて、気を使ってくれているなと思いつつも、嬉しくなりました。事実、居酒屋の個室は40人もの若者でいっぱいでした。平均年齢は23、4歳。女性も3人ほどいました。皆さんそれぞれに初めての出会いにもかかわらず、日頃メールを交換している間柄のせいか、とてもうち解けたいい雰囲気をかもしだしていました。
司会者の方の挨拶後、すぐに私への問いかけが始まりました。いずれも社会や政治を真剣にとらえた質問と意見でした。政党には興味を感じないものの、政治についてはまじめに考えており、政治家についても大臣を経験したかどうかという肩書きや経歴の立派さより、どんな発言、メッセージを出しているかに関心を抱いているようでした。私も聞かれるままに、時間を忘れ、3時間近く「森喜朗論」「年金問題」「台湾問題」などを述べましたが、率直な感想は、人と人が同じテーマについて話し合うことがいかに大事かということと、人と人とは話し合わなければ、なごまないものだということでした。そして何よりも、見ず知らずの人間どうしがこの国の現状と将来について真剣に話し合う時間と空間が存在する、私は、この国はまだそんなに見捨てたものではないな、と実感しました。
IT革命が叫ばれていますが、この革命の本質は「人と人との深いつながりを可能にする」ことにあるのかも知れません。「意見を持たない」「話さない」というのが、これまでの日本人のイメージだったのですが、これは、いま完全に変わりつつあります。音を立てて変わりつつあります。その意味では、これまでの党や団体などの組織を通 じてのタテ型の選挙パターンに大きな変化が起きることは必至です。
30人、40人の人と、いや10人、20人の人とも真剣に語ることが、この国を改革してよりよい社会を生み出していく「原点」、そこで出された思いやテーマは、必ず何百人、何万人、いや日本人全体の課題に通 ずる、これが今回「TERRAZIとゆかいな仲間たち」の「オフ会」に参加して、強く感じたことです。私は、この信念を抱き、さらに改革のための活動を続けていくつもりです。
『東京都池袋にて』加藤紘一からのメッセージ~2月7日~(加藤紘一オフィシャルサイト<<改革の広場>>):http://www.katokoichi.org/agenda/jikyoku_index27.html
◆『All About Japan』開設
2001年2月15日に開設した『All About Japan』は、リクルートと米About Inc社の合弁企業、リクルート・アバウトドットコム・ジャパン(後のオールアバウト)が運営するサイト。
『About.com』の日本版サービスであり、『About.com』と同じように様々なジャンルの専門家をガイドとして起用するガイド制をとっている。
後に名称が『All About』になった。
オールアバウトは2015年に『All About Japan』という名称を海外向け日本総合情報サイトとして復活させた。
■『All About Japan』:http://allabout.co.jp/
◆吉野家コピペ誕生
2001年4月7日、『Not Found』で吉野家コピペと呼ばれるようになる文章が書かれた。
新作出来ました!人生とはセパタクローである、ってやつなんですけど。
聞きたいっすか、いいっすか、そうですか、遠慮しますか。分かりました。
と、まあそんなこんなで、アクセス者の95%がメガネという
脅威のサイトN・FOUND、今日も始まったわけですけど。
昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、150円引き、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、150円引き如きで普段来てない吉野家に来てんじゃねーよ、ボケが。
150円だよ、150円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな。
よーしパパ特盛頼んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその席空けろと。
吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、大盛つゆだくで、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、つゆだくなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、つゆだくで、だ。
お前は本当につゆだくを食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、つゆだくって言いたいだけちゃうんかと。
吉野家通の俺から言わせてもらえば今、吉野家通の間での最新流行はやっぱり、
ねぎだく、これだね。
大盛りねぎだくギョク。これが通の頼み方。
ねぎだくってのはねぎが多めに入ってる。そん代わり肉が少なめ。これ。
で、それに大盛りギョク(玉子)。これ最強。
しかしこれを頼むと次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、牛鮭定食でも食ってなさいってこった。
PS.ACさんお金貸して下さい。
■2001/04/07 (土) ■(Not Found):http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=69964&log=20010407
この吉野家コピペを一躍有名にしたのがFlash動画であった。 ポエ山が作成した【ゴノレゴ】は吉野家コピペをゴルゴ13のデューク東郷がしゃべるというギャップで大ウケ。ウェブで大変な話題になった。
◆『スラッシュドットジャパン』開設
2001年5月9日に開設した『スラッシュドットジャパン』は、米 『Slashdot』の日本版サービス。Slashdotを運営するVA Linux Systemsと住友商事によって設立された日本法人が運営していた。 米 『Slashdot』と同じく掲示板サイト。VA Linux Systemsは『Slashdot』の運営の他にも、 Linuxに特化したハードウェアやシステムの販売のほか、『OSDN(open source development network)』というオープンソース系ポータルサイトの運用をしていた。 日本法人もLinuxカーネルを中心とした基盤系OSSに強みを持つソフトウェアエンジニアリングに進んでいった。 『スラッシュドットジャパン』は定期的に話題となり、日本のウェブで存在感を発揮した掲示板であったが、VA Linux Systemsと日本法人に運命を左右された。 2025年3月31日閉鎖。
■『スラッシュドットジャパン』:http://slashdot.jp/
◆『Wikipedia日本語版』登場
2001年5月20日、ユーザーが共同で執筆・編集して作り上げる百科事典『Wikipedia』に日本語版が登場した。 但し日本語版といっても当初はローマ字でしか書けなかった。 日本語が使用出来るようになったのは2002年9月からである。2003年に『Wired News』や『スラッシュドット・ジャパン』で紹介され一気に知名度を上げていった。 なお、2001年5月19日以前からhttp://nihongo.wikipedia.com 自体は存在しており、更新履歴を見ると3月20日以前から存在する事が確認出来る。
■『Wikipedia日本語版』:http://ja.wikipedia.com/
◆小泉内閣メールマガジン創刊
2001年5月29日、小泉内閣は「小泉内閣メールマガジン」の創刊準備号を配信。6月14日に創刊した。毎週木曜日に発行。 内容は、小泉総理のメッセージ・大臣のほんねとーく・特別寄稿・小泉内閣の動き。 始めての試みで大いに注目を集めた。創刊号は78万部で200万部を超えていた時期もあった。2006年9月21日の第250号が最終号。
● メールマガジンの創刊にあたって
小泉純一郎です。私のことを「変人」とかライオンのような髪型ぐらいし か知らない方も多いのではないでしょうか。この「小泉内閣メールマガジン」 で、小泉内閣の素顔を知って頂きたいと思います。
私の内閣は「改革断行内閣」です。この改革の成功には、皆さんとの対話 が不可欠です。メルマガで、私の、そして小泉内閣の考えをお伝えし、また 皆さんのご意見もうかがい、この国をどのような国にしていくのか、世界や 子どもたちに誇れる国にするにはどうしたらよいのか、住みやすく、働きや すく、憩いのある国に向けて何をするべきなのか、是非、皆さんと一緒に考 え、実現に向けて努力していきたい。見直すべきものは見直し、守るべきも のは守り、よい国を創っていきたい。それが小泉内閣の目指すものです。
私は、改革の過程を皆さんに明らかにし、広く理解と問題意識を共有して いきたい、「信頼の政治」を実現していきたいと考えています。情報をどん どん発信します。皆さんからのご意見、ご提案を歓迎します。そして一人ひ とりが「本当に日本はいい国になったな」としみじみと感じる、そんな国を 築いていきましょう。
メルマガも最初から完璧なものはできません。まず、できることから始め、 皆さんの意見を取り入れ、どんどん良いものにしていくというのが私の考え です。小泉内閣の政策も最初から完璧なものはできません。皆さんの意見を 取り入れ、よりよいものにしていきます。
皆さんの積極的な参加をお待ちしています。
らいおんはーと ~ 小泉総理のメッセージ:http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2001/0529.html(首相官邸)
◆2ちゃんねるスレ紹介サイトの登場
2ちゃんねるスレ紹介サイトは2005年秋以降に大量発生した2ちゃんねるまとめサイトの源流である。
2001年6月29日、『スレの杜』が開設した。このサイトは「スレッド紹介サイト」を名乗っており、管理人が面白いと思ったスレッドについて何の様な感じのスレッドなのかを短く数レス分載せていた。
即ち、面白そうなら自分でスレッドに行って読めという事であり、まさにスレッド紹介サイトであった。
2002年10月31日の「ちんこ音頭に投票してカラオケ入りを実現しよう」を最後にスレッド紹介はしなくなり、管理人の雑記が書かれた普通のブログになった。
『スレの杜』以外の2ちゃんねるスレ紹介サイトとしては『バーチャル2ちゃんねらー裕子』が挙げられる。
■『スレの杜』:http://www.aa.wakwak.com/~rewmew/
■『バーチャル2ちゃんねらー裕子』:http://www.yuko2ch.net/
◆8月危機と『ふたば☆ちゃんねる』開設
「8月危機」とは2001年8月25日に『2ちゃんねる』で起きた事件である。サーバ運営者が「みんなはさーん」という書き込み。そこから次々に掲示板が閉鎖されていった。
『2ちゃんねる』全体がいきなり閉鎖されたわけではなく、徐々に世界が崩壊していくような形であった。
8時23分、UNIX掲示板に「2ch閉鎖の危機なんだと」というスレッドが立つ。このスレッドに住民が集まり、対策を検討。
そこでread.cgiの改善案が出て、サーバに実装された。これにより転送量が改善され、掲示板が復旧されていった。
この8月危機をきっかけとして2001年8月30日に開設したのが『ふたば☆ちゃんねる』であった。『ふたば☆ちゃんねる』は
『2ちゃんねる』の掲示板が次々と閉鎖された事による避難所の役割であったが、やがて独自の文化を形成していった。
『ふたば☆ちゃんねる』から広まったネタとして、「まさに外道」「OS娘」「くそみそテクニック」「孔明の罠」「才能の無駄遣い」「死にたい」等が挙げられる。
なお、8月危機をきっかけに有名なコピペ文「ボクの肛門も閉鎖されそうです」が出来た。
ボクの肛門も閉鎖されそうです
1 名前: 真夏の名無しさん 投稿日: 01/08/26 15:18 ID:???
閉鎖します。
8 名前: 真夏の名無しさん 投稿日: 01/08/26 15:20 ID:???
>>1よ。お前みたいな奴をみると、あの日のことを思い出すよ。
2001年8月25日。2ちゃんが本格的に閉鎖になりかけた日だよ。
転送量が多すぎて、費用が月700万もかかってるって発表されて、「数日中に閉鎖」って予告されてさ、
その日のうちにあっちこっちの板が封鎖されてた日だよ。
あのときのUNIX板の住人、カッコよかったんだぜ。「総力を結集」ってのはまさにああいう状態だよ。
転送量を1/3に削減しないと閉鎖、ってもんだから、新しいプログラム組んでさ、
そしたらほんの何時間かで完成したんだよ。それが聞いてくれよ、目標は1/3だったのに
1/16まで圧縮に成功しやがったんだよ。職人技なんてもんじゃねえよ、神技だよ。
でもよ、そうやって頑張る人がいた一方で、「ボクの肛門も閉鎖されそうです」とか駄スレ立ててたバカも
いたわけだよ。ちょうど、今のお前みたいにな。
だからよ、俺たちは総力を結集して、お前のバカ度を1/16に圧縮しようと思うよ。
ま、圧縮後でもお前のバカ度はこの世に生かしておくことのできないレベルだけどな。
要するに俺らの力を結集してもお前を助けることができないってことだ。
わかったら、まわりに迷惑をかけないようにひっそりと死んでくれよな
ボクの肛門も閉鎖されそうです:http://corn.2ch.net/entrance/kako/998/998806721.html
■『ふたば☆ちゃんねる』:http://www.2chan.net/
◆ブロードバンドの普及加速
2001年9月1日、ソフトバンクはインターネット接続サービス「Yahoo! BB」を開始した。
他社のADSLサービスに比べて低価格だった事もあるが、何といってもADSLモデム無料配布が印象的。
ソフトバンクはアルバイトを使って駅前通り等、人通りの多い場所に陣取り、大声で声掛けし、道行く人にモデムを配っていく。
その戦術は取りようによっては迷惑行為そのものであり、Yahoo! BBは嫌われたサービスでもあった。ユーザーの急増は品質の低下にも繋がった。
然し戦術が功を奏し、ソフトバンクのADSL接続事業はシェアトップになった。
ソフトバンクだけではなく、通信各社はADSLサービスに力をいれた。月額定額料金で、しかもこれまでとは段違いの回線速度。
ADSLの普及により、ブロードバンド時代へ向かっていく。2001年は「ブロードバンド元年」といわれた。それはウェブ上のコンテンツが変わっていく事を意味していた。
■ナローバンドからブロードバンドへの変化推移:https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc212110.html
●ブロードバンドはケーブルインターネット、DSLにより普及、FTTHにより高速化・大容量化し、動画投稿サイト等のリッチコンテンツの利用が促進
平成13年版情報通信白書で『ブロードバンド元年』を宣言した以降、ブロードバンドはケーブルインターネットやDSLにより大きく普及し、その後FTTHへの移行を通して、より高速化・大容量化、つまりリッチ化していった。
利用する機能・サービスにどのような差異が生まれるのか、平成22年通信利用動向調査より、ナローバンドとブロードバンドの比較(図表1-2-1-8)をしたところ、
デジタルコンテンツ(音楽・音声、映像、ゲームソフト等)の入手・聴取については、ナローバンドからは16.3%と利用が比較的少ないが、ブロードバンドになると、28.3%と利用が拡大していることがわかる。
また、動画投稿サイトについても、ナローバンドの利用が少なく、ブロードバンドからだと利用が拡大する機能・サービスである。
つまり、ブロードバンドのリッチ化により、インターネットを介して動画投稿サイトや音楽・音声、映像、ゲームソフト等の様々なデジタルコンテンツや情報にアクセスすることが容易にできる環境になったと考えられる。
第1章 ICTにより国民生活はどう変わったか(総務省):https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h23/html/nc212110.html
◆ロリポップ!サービス開始
2001年11月11日、paperboy&co.が「ロリポップ!」のサービスを開始した。低価格なサイトスペース提供サービス。 ナウでヤングな人向けを謡ったり、マスコットキャラクターがサンタクロース風なロリポおじさんだったりしてるところがインパクト大。
◆ついに逮捕者が出たWinMXと「もうだめぽ」
2001年11月28日、京都府警は東京都と埼玉県の男性2人を著作権侵害(公衆送信権の侵害)の疑いで逮捕した。 逮捕された男性は、東京都杉並区の大学生(19歳)と埼玉県さいたま市の専門学校生(20歳)の2名。 WinMXで「Adobe Photoshop 6.0日本語版」「一太郎」「Microsoft Visual C++」等のソフトをダウンロードし共有していた為。 京都府警ハイテク犯罪対策室はこの二人だけではなく十名程度を調査しており、その中でも悪質な二人を逮捕した。 悪質とは「共有しているソフトの数が多い」「付加価値の高いソフトを共有している」「常時継続して公開を行なっている」。
編:そして『WinMX』を使い始めたのはいつ頃からですか?
A:去年の5月~6月頃ですね。『WinMX』以前は『Napster』を使ってました。『Napster』だとMP3落とすのが楽だよ、という話は前から聞いていたんですけど、実際は使ったことがなくて。
で、漫画喫茶とかインターネットが使えるところがあるじゃないですか。そこにいったら普通に『Napster』がインストールされてて。それで使ってみたら『ああこれは便利だな』と思うようになって。
それからファイル交換を始めました。
編:・・・それ、すごいネット喫茶ですね。場所は?
A:さいたま市なのですが、そこは生のCD-Rも売ってて、音楽CDのレンタルもやってましたね。
編:『Napster』でダウンしたファイルをその場で購入したCD-Rに焼いてもOKだし、レンタルしたCDをコピーすることもできる、と。
A:はい。これって、いいのかなー? とは思ってましたけど・・・。
編:それは、去年の話なんですか?
A:去年の年頭になりますね。それで5月頃に『Napster』のサーバーが停止するっていう話になった時に『WinMXだったらMP3だけじゃなくていろんなファイル落とせるよ』というのを教えてもらって、そこで使いはじめました。
編:最初の目的は、MP3?
A:そうですね。掲示板とかにアップされているファイルを拾ったりもしていたんですけど、せっかく見つけてもファイルがデリられてたり、偽装が何重にもかけてあったりとか。
それが面倒で『Napster』をやったらこりゃ楽だ、と。 検索すれば一発で見つかるし。だから『Napster』が駄目になったら次のツールを、ってなりますよね。
世界初のWinMXによる著作権違反逮捕者独占インタビュー(DEEPNET VOL.01)
2001年11月30日、『2ちゃんねる』のダウンロードソフト掲示板に「MX残り250人土曜日に一斉検挙されるが」スレッドが立った。
1 名前: ◆ky0/ufPM 投稿日: 01/11/30 05:28 ID:8Vl5dKuV
残りの250人に当てはまると思われる者は
最後に一言残して逝けや。
後、今の心境もな。
MX残り250人土曜日に一斉検挙されるが:http://pc.2ch.net/download/kako/1007/10070/1007065717.html
このスレッドに現れたのが、やすだゆういち。やすだゆういちは、今自宅に警察が来たと書き込み。
80 名前: 投稿日: 01/11/30 07:04 ID:/jDnbtss
自分の部屋、二階なんですが。
いま下で、親と警察らしき人たちが押し問答やってるんですが、、、
いや、まじで、、、
82 名前: 投稿日: 01/11/30 07:06 ID:/jDnbtss
てゆか、うちの親なんかないてるっぽい、、、
88 名前: 投稿日: 01/11/30 07:08 ID:/jDnbtss
とりあえず、部屋のカギかけました。
手、ふるえまくり。
おれも、なきそう、、、
なんでえええええええええええええええええええええええええええええ
113 名前: 投稿日: 01/11/30 07:17 ID:/jDnbtss
やすだゆういち
あああ、、、、
やっぱ警察だよおおお。
いま、あけなさいってゆったあああああ
122 名前: 投稿日: 01/11/30 07:19 ID:/jDnbtss
22歳
てゆうか、おれ神だね。
警察、説得モードにはいってきた。
ちょっと、おちついてきました、、、、
137 名前: 投稿日: 01/11/30 07:22 ID:/jDnbtss
会社員
あぷりおんりー
あああ、手またふるえてきた、、、
145 名前: 投稿日: 01/11/30 07:24 ID:/jDnbtss
えいがもあったなああああ
あとえみゅもお。
なんか、ハイ
154 名前: 投稿日: 01/11/30 07:25 ID:/jDnbtss
そと、ちょっとしずかになた
そとで、はなしごえ
おや、いまだに泣き
174 名前: 投稿日: 01/11/30 07:30 ID:/jDnbtss
煽ってるっみんながうらやましい
さっき、泣き声でおやになまえよばれた
あと、車?ぱと?がもう一台きたっぽい
194 名前: 投稿日: 01/11/30 07:36 ID:/jDnbtss
またきた
MX残り250人土曜日に一斉検挙されるが:http://pc.2ch.net/download/kako/1007/10070/1007065717.html
そして最期の時が……
202 名前: 投稿日: 01/11/30 07:38 ID:/jDnbtss
かぎのおとが
おやがかぎわたしや
もうだめぽ
MX残り250人土曜日に一斉検挙されるが:http://pc.2ch.net/download/kako/1007/10070/1007065717.html
やすだゆういちが最後に書いた、「かぎのおとが おやがかぎわたしや もうだめぽ」が語呂の良さと、 まるで辞世の句のようだとしてウェブで激ウケ。これをネタにしたFlash動画が作られた。「もうだめぽ」は有名なネット用語になった。 書き込みが真実かネタかは不明。
◆田代祭
米国「TIME」紙は毎年選出している「Person of the year」の 2001年のインターネット投票を開始した。これに悪乗りしたのが2ちゃんねらーであった。
2001年12月19日、『2ちゃんねる』で「【米TIME紙】田代がビン・ラディン抑え世界一!」というスレッドが立つ。
スレッドの>>1は、Person of the year 2001のインターネット投票で田代まさしを1位にしてしまおうと呼びかけた。
1 名前: 鉄腕28号 ◆Atom.28g 投稿日: 01/12/19 14:25 ID:/XAFIJE7
2001年を締めくくるに、ふさわしい祭りです!
米【TIME】紙が「Person of the 2001」の投票を行っています。
75年の歴史を誇る由緒正しい賞で、過去には「ヒトラー」や「レーニン」
なども選出されています。
本年度、現在までのトップはやはり「ビン・ラディン」で
2位以下は、「ブッシュ大統領」「ジュリアーニ N.Y市長」と続きます。
田代まさしが「ラディン」「ブッシュ」「ジュリアーニ」を越え
世界一となる、又とないチャンスです!投票もかなり簡単です。
吾らが教祖、田代氏が、世界一の重要人物になれるよう清き1票を!
アメリカ人を驚かせてやれ!(藁
【米TIME紙】田代がビン・ラディン抑え世界一!:http://choco.2ch.net/news/kako/1008/10087/1008739542.html
2ちゃんねらーは「田代砲」と名付けられた自動投票スクリプトを使い、田代まさしに投票を入れていった結果、 なんと2位のオサマ・ビン・ラディンに大差をつけて田代まさしが1位となった。 勿論TIME誌はそのまま田代まさしをPerson of the Yearにする訳が無く、投票結果は無効となり、 ニューヨーク市長のGiulianiが「Person of the year 2001」になった。 2ちゃんねらーが起こした悪乗りは「祭り」と表現されるが、この出来事は「田代祭」と呼ばれた。 更には、この祭りをFlash動画化した【片翼の田代】が大人気となった。
■【片翼の田代】(madhatter)
◆『ヤプース!』オープンベータテスト開始
2001年12月20日、レンタルウェブ日記サービス『ヤプース!』がオープンベータテストを開始した。
『ヤプース!』の特徴的な所はE-メールを送るだけで更新できる点とフォト日記、つまり日記に画像を付けることが前提になっている点。
オープンベータテストであるが、正式サービスに移行する前にグローバルメディアオンラインに買収され、後に『ヤプログ!』となる。
『ヤプース!』の代表的な日記は『しょこたん☆にっき』。
なお、『ヤプース!』のサービス開始日は書いている記事によって2001年7月だったり、2001年9月だったり、2001年12月だったりするが、整理すると
2001年7月9日にユーザーを極一部に限定したテストを開始、2001年9月15日にメールマガジン開始。2001年10月か11月にユーザーを広げたテストを開始(ユーザーは公式サイトで募集した)、
2001年12月20日にオープンβテスト開始である。
■『ヤプース!』:http://yapeus.com/
◆個人ニュースサイト界の動向
2001年4月22日に開設した『かーずSP』は個人ニュースサイトの象徴的な存在である。三大個人ニュースサイト”KKG”の一角であり、
アニメ・ゲーム系が中心だがFlash動画についても力を入れており、Flashニュースサイト”御三家”の一角でもある。個人サイトが廃れてからも更新をし続けている稀有なサイト。
5月15日に開設した『NuBoNBA』はFlashニュースサイトの先駆け。『かーずSP』や『ホタテプロダクツ』よりも早い段階でFlash動画を紹介していた。尤も、このサイトの管理人が有名になるのはブロガー「イケダハヤト」になってからの事である。
7月15日に開設した『カトゆー家断絶』は三大個人ニュースサイト”KKG”の一角で、紹介する記事の多さが特徴。
他には、音楽情報を取り上げて後の商業サイト『ナタリー』の源流でもある『ミュージックマシーン』、『裏ニュース』の後継サイトである『連邦』等が挙げられる。
■『かーずSP』:http://hw001.gate01.com/karzu/
■『カトゆー家断絶』:http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/
■『NuBoNBA』:http://www1.vis.ne.jp/~nubonba/
■『ミュージックマシーン』:http://www.musicmachine.jp/
■『連邦』:http://renpou.com
◆ウェブアニメーションの動向
この年は【Hatten ar din】【ペリー】がウェブ上で大きな話題となった。どちらも笑える動画として当時は広まったもの。
とはいっても【Hatten ar din】は後年見た際には何がウケたのか解らないかもしれない。当時のウェブに漂う空気感があっての動画。
【ペリー】はFlash動画として面白いというよりも、元となる音声の面白さがあってこそである。
この年は前年に続きウェブアニメーションの可能性を示す年であった。Flashで制作した動画がウェブの中で存在感を発揮する事を示した作品が多数現れた。
【つきのはしずく】と【quino】は、その代表作といえる。
【つきのはしずく】は空を飛んでいる感が秀逸、【quino】は映画のような見せ方の作品で、Flashを使って個人でここまで動画を作れるという驚きを与えた。この2動画は後発の職人にとって見本であり、目標にもなった。
他にはAAキャラクターを使った動画が人気になりつつあった。
また、【片翼の田代】に代表されるように、ウェブ上の話題・出来事を伝える手段としてもFlash動画は力を発揮した。
この年に活躍したFlash動画職人として、森野あるじ、ポエ山、(V)o\o(V) 、南向春風、ドラワサビ、wosa等が挙げられる。
■【つきのはしずく】(森野あるじ)『RG-CONSENT』
■【Hatten ar din】(Martin Holmstrom)
■【wasabi】
■【GLOVE ON FIGHT】(南向春風)
■【quino】(ポエ山)『POEYAMA』
■【ゴノレゴ】(ポエ山)『POEYAMA』
■【DoRaeMooooooooooooN!!】(ドラワサビ)『ドラサイト』
■【ペリー】
■【夢の中へ】
■【うる★8つら】(wosa)『wOzBox』
◆その他
2001年4月26日:『優駿達の蹄跡』開設。競走馬達の血統表と成績が載っているサイト。その情報量には圧倒される。驚愕すべき個人サイト。
『netkeiba.com』等の商業サイトが競走馬情報を充実させる前までは、馬名で検索すれば有名な馬も地味な馬もまずこのサイトが出てきた。
2001年4月:『絵日記でもかいてみようか』開設。絵日記サイト最大手。ほのぼのひとコマ絵日記。
2001年5月14日:『タブブラウザ推奨委員会』開設。タブブラウザのレビューサイト。
2001年9月:『楽画喜堂』開設
2001年10月5日:『1ch.tv』開設。西和彦がプロデュースし、あめぞうがディレクターを務めた大型掲示板。「1ch.tvは、個人と個人が価値ある情報を小額決済によってやりとりする、情報の流通センターを目指す」とのことだが目標には遠く及ばないまま閉鎖。
2001年10月17日~2002年3月9日:「葉鍵板最萌トーナメント」開催。
『2ちゃんねる』で行われた、Leaf,Keyのキャラで誰が最も萌えるかを決めるイベント。
一対一で人気投票を行い、得票数の多い方が勝ち進むトーナメント方式。このイベントの成功により2008年辺りまで「2ちゃんねる全板人気トーナメント」「2ちゃんねる全AA人気トーナメント」「「何か。」最萌トーナメント 」等多数のトーナメントが行われた。
2001年12月3日:『自動アンケート保存』開設。後の『自動アンケート+』。
2001年7月15日:『人力検索サイトはてな』開設。人が答える検索サイト。
■『優駿達の蹄跡』:http://csx.jp/~ahonoora/
■『絵日記でもかいてみようか』:http://enikkidemo.com/
■『1ch.tv』:http://1ch.tv/
■『自動アンケート+』:http://natori.brandneweb.com/vote4/list.cgi
2002年(平成14年)
新時代の予感
▼主な出来事
ちんこ音頭とムネオハウスとキッコーマソ、 福岡猫虐待事件、 Winnyの登場、 ファイナルファンタジーXIとラグナロクオンラインのサービス開始、 タカラギコ騒動、 2002年FIFAワールドカップを巡る騒動、 さいたまブーム、 ブログ騒動、 テキストサイト界の動向、 個人ニュースサイト界の動向、 ウェブアニメーションの動向
◆ちんこ音頭とムネオハウスとキッコーマソ
00年代は『2ちゃんねる』からクリエイティブなものが出てきていた時代。2002年にはその象徴的な作品が3つ登場した。
「ちんこ音頭」とは『2ちゃんねる』が誇る名曲である。『2ちゃんねる』の「お祭り会場掲示板」に「ちんこ音頭」というスレッドが立った。
「さぁ!みんなでいきましょう!あそれ♪ちんこもみもみ も~みもみ ちんこもみもみ も~みもみ」 という>>1の書き込みはクソスレの予感しかしなかった。
1 名前: 投稿日: 01/12/20 21:40 ID:???
さぁ!みんなでいきましょう!あそれ♪
ちんこもみもみ も~みもみ
ちんこもみもみ も~みもみ
20 名前: 名無しさん@おどらにゃソンソン 投稿日: 01/12/22 13:51
ばかでしょ?
41 名前: 名無しさん@おどらにゃソンソン 投稿日: 02/01/03 20:20
どーすんだよ、このスレ
ちんこ音頭
スレッドが立って3週間経った2002年1月4日、これを10番まで歌詞を考えた人が出てきてた。 然も、そのあまりにもバカバカしい歌詞を歌ってmp3をアップロードした者が現れ、ここに『2ちゃんねる』が誇る名曲「ちんこ音頭」が完成した。 更にはこれをFlash動画化した者まで現れたのである。これがウェブで大ウケ。一人のバカバカしいネタが複数人の手で作品として昇華されていった。
2002年2月14日、「テクノミュージック掲示板」に「アシッドハウス=ムネオハウス」というスレッドがたった。 当時”疑惑の総合商社””ムネオハウス”で世間の注目を浴びていた鈴木宗男衆議院議員。 「アシッドハウス=ムネオハウス」はハウスミュージックとかけただけのスレッドだが、早速架空の設定が作られていった。
13 :TR-774:02/02/14 03:34 ID:???
【muneo house】
86年ごろにシカゴハウスから派生したTB303(80年代前半にローランドが
作り出したベース用の簡易シンセサイザー)をメインに用いたドラッギー
なハウスのことを指します。
このムネオハウスはヨーロッパで大ブレイクし一気にテクノ系のサウン
ドに火をつけるきっかけとなりました。
アーティストとしてはDJピエール、アドニス、アルマンド、鈴木宗男など
がルーツで、レーベルとしてはTRAXが有名です。
65 :Muneo Latino(・∀・)イイ!! :02/02/18 05:14 ID:???
1989年にイタリアのDFCからリリースされたこの曲は、当時の
このレーベルのサウンドをすべて担っていたDFC TEAM(ムネオスズキ)
のプロデュースによるもので、田中真紀子というセクシーな女性シンガー
がフィーチャーされている。
原曲はドイツのMANUEL GOTTINGが1984年に発表した名作『E2-E4』であり、
その楽園的なアンビエント感覚を存分に活かした官能的なイタリアン・ハウス・トラック
は当時、世界中のダンスフロアで流行した。'92年にはDERRICK MAYが、
'94年にはCARL CRAIGがこの曲のリミックス(リメイク)を発表しており
永遠のユーロ・ハウス・クラシックの一つとなっている。
アシッドハウス=ムネオハウス:https://music.5ch.net/test/read.cgi/techno/1013613060/
すると今度は国会映像の音声を使ったムネオハウスミュージックが次々と作られていったのである。架空から現実へ。 加えてジャケットの絵とライナーノーツまで制作され、ムネオハウス1st Album「"THE MUNEO HOUSE"」が完成した。 更にはこれをFlash動画化した者まで現れたのである。これがウェブで大ウケ。ちんこ音頭と同じように一人のバカバカしいネタが複数人の手で作品として昇華されていった。
2002年9月5日、「モナー大好き掲示板」に「醤油入れ」というスレッドがたった。 >>1は駅弁によく入っている魚の形をした醤油入れをAAにしたのだが、これのパワーアップを要求した これを>>7がパワーアップさせ過ぎた事で「醤油戦士キッコーマソ」となった。
1 :( ´∀`)さん:02/09/05 13:32 ID:7W40WMUv
パワーアップきぼんむ
/ ̄ヽ
/⌒⌒⌒ヽ/|
⊂| ◎ ∥
ヽ 丿\|
 ̄∪ ̄
7 :( ´∀`)さん:02/09/05 14:40 ID:JWClUaZB
/ ̄ヽ
/⌒⌒⌒ヽ/|
⊂| ◎ ∥
ヽ ゚∀゚丿\|
__ 〃ヽ〈_
γ´⌒´--ヾvーヽ⌒ヽ
/⌒ ィ `i´ ); `ヽ
/ ノ^ 、___¥__人 |
! ,,,ノ爻\_ _人 ノr;^ > )
( <_ \ヘ、,, __,+、__rノ/ /
ヽ_ \ )ゝ、__,+、_ア〃 /
ヽ、___ ヽ.=┬─┬〈 ソ
〈J .〉、| 本 |, |ヽ-´
/"" | 醸 |: |
レ :|: 造 | リ
/ ノ|__| |
| ,, ソ ヽ )
.,ゝ ) イ ヽ ノ
y `レl 〈´ リ
/ ノ | |
l / l;; |
〉 〈 〉 |
/ ::| (_ヽ \、
(。mnノ `ヽnm
8 :( ´∀`)さん:02/09/05 14:55 ID:SuyzmuOL
>>7
パワーアップしすぎ
醤油入れ:http://aa.5ch.net/test/read.cgi/mona/1031200340/
すると今度は戦隊ものチックな主題歌が制作された。更にはこれをFlash動画化した者まで現れたのである。これがウェブで大ウケ。 ちんこ音頭・ムネオハウスと同じように一人のバカバカしいネタが複数人の手で作品として昇華されていった。
■【ちんこ音頭】
■【THE MUNEO HOUSE PV】(田代監督)『田代まさしファン倶楽部』
■【戦え!キッコーマソ】(ヨガ鳥)『ヨガ鳥』
◆福岡猫虐待事件
2002年5月6日、『2ちゃんねる』の「ペット大嫌い掲示板」に「おい!おまえら」というスレッドが立てられた。
5月7日、スレの>>1は猫を虐待し始める。それもスレッドで実況する形式で。尻尾や足を切断、お尻に割り箸を挿す、熱湯をかける。その写真をアップロードしていくのである。
虐待を4時間も続け、最後に猫の首をワイヤーで締め殺した。死体は川に捨てた。
この残虐な行為に非難が殺到。『2ちゃんねる』での実況は2ちゃんねらーに分析される事に繋がり、>>1は逮捕された。
動物愛護法違反により懲役6か月・執行猶予3年の判決を受けた。
◆Winnyの登場
2002年5月6日に公開された「Winny」は『2ちゃんねる』の「ダウンロードソフト掲示板」発祥の国産P2Pソフトである。 当時主流だったP2Pソフト「WinMX」は2001年11月に著作権侵害をしたとして学生が逮捕されていた。 故にWinMXに代わる、それも匿名性の高いP2Pソフトの登場が待たれていた。そんな中、ダウンロードソフト掲示板に、とあるプログラマーが現れる。彼は新たなP2Pソフトの開発を宣言した。
47 名前: 投稿日: 02/04/01 05:35 ID:WTyTkgT
暇なんでfreenetみたいだけど2chネラー向きのファイル共有ソフトつーのを
作ってみるわ。もちろんWindowsネイティブな。少しまちなー。
MXの次はなんなんだ?:http://tmp.2ch.net/download/kako/1017/10175/1017590243.html
ソフトの名称はWinMXの後継ソフトであることを意識して付けられた。
225 名前: 投稿日: 02/04/04 08:59 ID:Roy2G6sC
NXってのはNEC系Pcのプレインストールアプリに
良くついてる名前なんだよなあ。
MXの次ということで
M→N
X→Y
WINNY=『ウィニー』
という線もあるかな。
W→X I→J N→O
も加えると、
XJONY=『エクスジョニー』
『47』ってのも
これがメジャー化した時
何故そんな名称なのか、
このスレが伝説になりそうでよい。
(・◇・)ヨナー
377 名前: 47 投稿日: 02/04/05 14:46 ID:yZ65YIiO
ん~、じゃWinnyにしますか?初めはWinNYだったけどMXの後継とは無関係に
Windows Next eXchange programって説明できていいかと思ったんで
WinNXに変えたんだったり。
全部小文字にしてI love NYな人っぽい意味合いで語呂がいいからってことでもいいかも。
あと47絡みの名前は却下っす。使うなら作者名に使いますわ。
ちなみに今作ってるプログラムInfo情報は以下の通りになっとります。
WinNX Version 1.0a1(Build ????)
Copyright 47@download.2ch
MXの次はなんなんだ?:http://tmp.2ch.net/download/kako/1017/10175/1017590243.html
開発したプログラマーは47レス目に登場したことから「47氏」と呼ばれた。そして、47氏はP2Pソフトを見事に作り上げたのである。
231 名前:47 投稿日:02/05/06 15:49 ID:9nmsmZMp
ここです
ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley/2949/
MXの次はなんなんだ?4:http://tmp.2ch.net/download/kako/1020/10202/1020264992.html
Winnyは高い匿名性と効率の良いファイル共有で大人気となった。 突如現れ、短期間でソフトを作り上げた謎のプログラマー47氏。その正体は、この時点では謎に包まれていた。
■『Winny Web Site』:http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/2949/
■「Winny」(ソフトウェア)
◆ファイナルファンタジーXIとラグナロクオンラインのサービス開始
2002年5月16日、コンシューマゲームソフトの大タイトルであるファイナルファンタジーのMMPRPG「ファイナルファンタジーXI」がサービスを開始した。プラットフォームはPlayStation2で後にWindows版も発売された。βテストは前年の12月17日から。
日本のゲーム史におけるファイナルファンタジーXIの重要性はいうまでもないが、この時期の日本のウェブ文化に影響を与えたMMPRPGという点ではウルティマオンラインとラグナロクオンラインの二つが存在として大きく、
それと比べればファイナルファンタジーXIは”日本のウェブ文化的には”地味な存在になるのだが、重要な点が一つある。
ファイナルファンタジーXI初期のラスボスである闇の王。これはヘビーユーザー(所謂ネトゲ廃人)にとっても討伐するのが大変困難なボスであった。
これを世界で最初に討伐したパーティはシヴァサーバーにあり、そのリーダーはAposといった。公式サイトに「闇を祓いし者」とまで書かれたApos一行(*10A)。
このAposこそ、20年後に大注目を浴びる暇空茜であった。
2002年12月1日、「ラグナロクオンライン」がサービスを開始した。プラットフォームはWindows。βテストは前年の11月29日から。
ラグナロクオンラインはガンホー・オンライン・エンターテイメントが始めに当てたタイトルであり、これの成功が「パズル&ドラゴンズ」に繋がっていく。
ガンホーがラグナロクオンラインに関わったのはβテストの途中からであり、
ガンホーが関わる前は制作会社の韓国GRAVITY社が直接運営していた。
そして、GRAVITYの運営では足りない部分を補完しラグナロクオンラインを日本で流行らせたのは個人サイト達であった。
個人サイト達がラグナロクオンラインを取り上げ、特に当時大きな存在感を発揮していたVNI界隈で大流行。ROVNIという派閥を築くまでになった。
大手総合情報サイトは公式サイトでは足りない情報、特に初心者向け情報や狩場情報を補完。
これにより、個人サイトでラグナロクオンラインを知った人が大手総合情報サイトを参考にしてログインし一定遊ぶまでの道筋が出来た。
元々コンシューマゲームソフトの大タイトルであるファイナルファンタジーXIと違い、韓国の新規タイトルの一つでしかなく、
日本市場以外ではシェアを獲得出来なかったラグナロクオンラインが日本では成功した理由は上記が理由と考えられる(*10B)。
ラグナロクオンラインに関わるネタは幾つか話題になったが、「S県月宮」というネタが一番よく知られているところである。
*10A:「冒険者たちに新たなる息吹」
*10B:詳細はこちらを参照⇒「ウェブ文化から見たラグナロクオンラインの歴史」
■『ファイナルファンタジーXI』:http://www.playonline.com/ff11/home/index.html
■ラグナロクオンライン日本語公式サイト:http://www.ragnarokonline.com/jp/r_main.htm
◆タカラギコ騒動
2002年6月2日、「タカラギコ騒動」が発生した。『2ちゃんねる』ではモナー誕生以降、AAキャラクターが数多く生まれた。
モナー大好き掲示板やAA長編掲示板、FLASH・動画掲示板ではAAキャラクターを使ったネタが大量生産されていった。
モナーやギコ猫は『2ちゃんねる』の看板役だった。そんな中で、タカラがギコ猫を商標登録出願したのである。
これが『2ちゃんねる』住民に知られ、タカラへの抗議が行なわれた。
「ニュース速報掲示板」に「【商標】『ギコ猫』はタカラの猫?【申請中】」スレッドが立った事を皮切りにタカラへの抗議スレッドが乱立。
更には、タカラに抗議するAAやFlash動画等が作成されていき、抗議サイトまで発生した。
抗議サイトとして『「ギコ猫」商標申請事件総合情報サイト タカラ逝ってよし!』『落ちついて「タカラ・ギコ猫商標問題」を考えてみるページ』『DJおつまみネタ工房』の「(;゚Д゚)タカラ逝ってヨシ!」ページが挙げられる。
翌日、『2ちゃんねる』のひろゆき氏はタカラにメールを送信。同日中にタカラは商標登録の出願を取り下げ手続きを決め、公式サイトにその旨を告知。ひろゆき氏にも同様の回答。タカラの迅速な対応により、騒動は素早く収まった。
■タカラギコ騒動の時に作られたバナー「AAはだれにもしばられません」
*:詳細はこちらを参照⇒「タカラギコ騒動について今更振り返る」
◆2002年FIFAワールドカップを巡る騒動
きっかけはウェブ上の出来事ではないにも関わらず、ウェブで特に大きな騒動となったのが2002年FIFAワールドカップである。
日本と共にホスト国である韓国が関わる試合で次々に不可解な判定が起こる。そしてその判定が韓国に有利に働くものであった。
故に意図的に有利な判定が行われているのではないかという疑惑が沸き起こった。
更に不可解であったのは西欧諸国ではこの疑惑について報道されているにも関わらず、日本ではほぼ報道されない(*10C)という事であった。
これをはっきりさせた記事がある。『MSN』にサッカーコラムを連載しているスポーツジャーナリストはワールドカップ開催中、韓国に滞在していた。そして現地からサッカーコラムの連載を更新していた。
始めは韓国に好感を持っており「日韓共催の意義はあったのかなと思う」と書いていた。 然し、試合が進んでいき、滞在日数増えていくにつれ、思いが変わっていく。
彼はポルトガル対韓国戦を見た後のコラムで「客観的に見ていた我々日本人にとっても審判の采配は不可解としかいいようのないもの」
と書き、イタリア対韓国戦では、
・この日をもって韓国のワールドカップは終わった
・これはワールドカップではなく鄭夢準カップ、もしくは現代財閥カップだ
・いまや韓国の試合には、必ずPKと退場者がついてくる。この期に及んでの操作は、もう明らかだと私は思う
・イタリアが敗れた。それも不条理な判定で。もう韓国の試合は見たくないし、日本に帰りたいと本気で思った
・日本が敗れたことを知らせるアナウンスがあると、韓国人から大きな拍手が巻き起こった。そしてこの韓国の疑惑のゲームである。やっぱりワールドカップは共催するべきじゃなかった。このワールドカップは失敗だったと思う
と書いた。そのコラムから感じられるのは怒りというよりも失望、そして悲しさであった。そしてこのコラムが疑惑の目で見ていた人の気持ちと繋がったのである。
■「情熱サッカーコラム 韓国ワールドカップ観戦記#3」:http://sports.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=175352
このコラムはウェブで大反響を呼んだ。反響の二日後、そのスポーツジャーナリストはこうも書いた。
「日本でこのコラムが大きな反響を呼んでいると初めて知った。日本ではなにも事実が報道されていなかったようだ。
こちらに来ている新聞記者は、僕も含めて事実を記事にして日本に送っているのに、日本のほうで韓国の疑惑に対する記事は削除されているようだ」
■「情熱サッカーコラム 韓国ワールドカップ観戦記#4」:http://sports.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=178267
マスコミが韓国に不利な情報を流さないようにしているのではないか。ウェブ上ではそんな事がいわれるようになった。
『MSN』のサッカーコラム以外では『スポーツナビ』のコラムでもスポーツライターがワールドカップ特集で、「韓国代表は、実によく戦った」と書くなど韓国代表の力を高く評価しつつ、
マスコミ・知識人の姿勢に対して下記の苦言を呈した。(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/wcup/02japan/column_index.html)
・「共催」という錦の御旗を振りかざして「韓国礼賛」を喧伝する一部マスコミ
・少なくとも今大会では、日本は韓国に対して、応援する権利があったのと同様、批判する権利だってあったはず。
曲がりなりにも「共催のパートナー」韓国サイドで起こったさまざまな問題について、「大会の当事者」として意見する立場にあったはず。
それを日本のメディアは「共催ムードを損ねる」という判断から、一切の批判を拒否し、ひたすら韓国礼賛に腐心していた
・大会期間中に限定して言えば、韓国は共催の意義よりも自国の躍進ばかりに心を奪われ、日本ばかりが「共催」という共同幻想に拘泥することになった。
とりわけ両国における共催の温度差を無視したまま、韓国に対して無批判・全肯定の態度を取り続けた日本のメディアには、本当に幻滅を覚えるばかりであった
・今大会におけるメディアのあり方については、ゆめゆめ忘れることなく、語り継がなければならない。
そして、ホスト国として迎えた2002年のワールドカップが、もし何がしかの権力によって意図的に書き換えられるようなことがあれば、
断固として「ノー」を突き付けるべきであろう
判定に抗議をする為のサイトが作成された。代表的なものとして『知らされなかった韓国サッカーの“裏側”』『韓国人に汚された2002年W杯を僕たちは決して忘れない』『勝つ為だったらどんな汚い手も使うのですか?』が挙げられる。
さて、ウェブの活動に留まらず、実行動に出たのが「日韓ワールドカップ パブリックビューイング ドイツVS韓国 ~ジャーナリスト魂に訴えろ~」という活動であった。
2002年6月25日のドイツ対韓国戦は国立競技場でパブリックビューイングが行われる。当然マスコミは来るはずである。外国のマスコミも来るはずである。
そこでパブリックビューイングにみんなで行き、公正な判定を望む気持ちを伝えようという活動であった。
専用サイトと『2ちゃんねる』のスレッドで参加を呼びかけ。
当日は「Fair Judgement Please」「JAPAN DEMANDS FAIR JUDGE」等と書かれたTシャツ・たすき・横断幕を掲げた人が何十人も集まり、マスコミにアピールをした。
外国のメディアを見つけては、どうしてこういう活動をしているかを英語で話して訴えた。
この運動は東スポとNewsWeek日本版に写真が載るという成果を出した。
2002年7月5日~7日、「湘南ゴミ拾いオフ」が行われた。これはフジテレビのワールドカップ報道に抗議する為に行なわれた『2ちゃんねる』のオフ会。 同局恒例のFNS27時間テレビで湘南海岸清掃企画がある事に目をつけた2ちゃんねらー。事前にゴミをこちらで全部拾ってしまえというものであった。 湘南海岸のどこのゴミを拾うかは議論の末、江ノ島にした。7月5日~7日早朝まで数百人の2ちゃんねらーがゴミ拾いを行い、フジの中継が行われる前に全てのゴミを片付けた。
*10C: なお、疑惑についてテレビで全くコメントが無かった訳では無い。出演者がはっきりコメントした場面が一つある。 「審判は本当にアンフェア」「これ(イタリアが抗議しているVTR)だけ見てたらイタリアが悪く見えてしまう」「後ろから見たらトッティが足をかけられているのに、そのシーンがテレビではカットされている」「『アズーリの墓場へようこそ』とかいうのはいいわけ?相手に礼儀がないのはおかしい」 と生放送で苦言を呈し、出演しているサッカー解説者には「黙ってないで、言いたいこといって!」と発言を促し、解説者から「今回はひどすぎる」との発言を引き出した、その人は早逝した飯島愛だった。
◆さいたまブーム
2002年9月、さいたまAAとさいたま効果音を使ったさいたまFlashが発生。「さいたまさいたまさいたまさいたま」とさいたまを連呼するBGMと "たいよう"と"みぎ"と"ひだり"が「さいたまさいたま!」「さいたまさいたまさいたま!」「さいたま~~~!」と叫んでいるAAの組み合わせがウェブで大ウケした。 さいたまのBGMは疾走感溢れるバージョン等幾つかの別バージョンも作成され、さいたまFlashも次々に発生した。
■【さいたま】
*:詳細はこちらを参照⇒「さいたまブーム」
2002年11月、再びさいたまネタが。埼玉県にある病院「さいたま愛生会」のサイトがあまりにもぶっ飛んでると『2ちゃんねる』で話題になり、瞬く間にウェブ全体に知れ渡った。 激しくチカチカする色使い、謎に大きくなったり小さくなったりするテキスト、そして流れるMIDIは太陽にほえろ!のテーマ。つっこみどころしかないこのサイトは伝説として後年まで語り継がれた。
■【さいたま愛生会】:http://www.aiseikai.or.jp/(このサイトの面白さは静止画では伝わらない……gifアニメとあのBGMがなければ……)
◆ブログ騒動
「ブログ騒動」とは日本のウェブにブログという言葉が広がるきっかけの一つとなった出来事である。
2002年9月26日、東京大学メディア環境学研究室(MESH)の助教授であった武邑光裕がブログを始めた。
my first blog.
久しぶりにJoiに会った。彼はいつも私たちの先にあるコミュニケーションの形を教えてくれる。 Blogは久々に感激しているツールだ。どんな可能性があるかを実際に経験するため、とりあえず日記のように、記憶の地図のように、書き記そうと思う。 構想から3年くらい、今年は新しい本を書いていた。今まで書き下ろしの本など書いたことがなかったが、「デジタル・アーカイブ」に関する論考をまとめ上げている。 記録と記憶、そして忘却。ポール・オトレ(Paul Otlet)からアビ・ヴァールブルグ(Aby Warburg)、 そしてH.G.ウエルズ(H.G.Wells)、からバネヴァー・ブッシュ(Vannever Bush)、さらに現代のテッド・ネルソンに至るまでのハイパーテクスト概念の思考の流れを整理して、 何故人間は記憶を外在化するのか、そしてそれらは忘却という内在化をいかに生み出すのかを考えた。 Blogは何かのヒントを与えてくれそうだ。
my first blog.(Mitsuhiro Takemura's Blog):http://blog.neoteny.com:80/takemura/archives/001057.html#001057
Joiとはネオテニーやデジタルガレージの代表取締役、伊藤穣一の事である。武邑はMESHの学生にブログを勧めた。そしてブログを始めた学生の一人が明神光浩であった。 明神は自身のブログで以下のように書く。
BLOG BY MESH
須之内君によってメディア環境学研究室のblogが立ち上げられてから3日目にして、やっとmy blogをスタートさせました。ほんとはスタイルシートをカッコよくしてからコンテンツを作りたかったんだけど、スキルがないので諦めて、とりあえず始めてみることにしました。
「blogの良さは実際にやってみなければわからない」と言われますが、現状では「はじめにくいからその良さがわからない」という面が大きいのではないかと感じました。HTMLでホームページを作る際には、「初心者のためのホームページ作成法」などの類のwebページや書籍が大量に出回っているので、それを利用すれば誰でも容易に作成できます。しかし、blogに関してはそういったものがまだ見当たりません。そもそもこのMOVABLE TYPE自体に英語版しかなく、HELPを読むのに助けが欲しいくらい(と某メンバーが言っていました)です。こういう状況だからこそ、ボクらがblogを作っていく際に困ったことや苦労したこととその解決法をまとめることに意義がありそうです。それを「初心者のためのblog作成法」として研究室のblogで公開すれば、これから始める人にとって大変役立つものになるのではないでしょうか。
blogが一般的になったときに、「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)
BLOG BY MESH (another mitsuhiro's blog):http://bloggers.ja.bz/myojin/archives/000002.html
この「blogが一般的になったときに、「mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない」と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)」
は個人サイトから反感や苦笑を買った。というのも日本におけるブログ、即ち「通常一人で管理しており定期的に更新がある小規模なサイト」という行為は、
個人サイト、特に個人ニュースサイトで既に行われていた事であった。日本におけるブログ草創期というのは既に終わっていたのだ。
同日、「Dの食卓」で有名な飯野賢治がブログを開設。そこにはブログを開設した理由として「伊藤がやってるから」といった事が書かれていた。
2002年10月25日、武邑は以下のように書く。
Birthday
誕生日。48歳、よくもまあ、死なずに生きてきた。ただし、home alone....
本の校正やオーストリラリアの会議の準備で、寝る間も惜しい。blogはほんと、つかの間の休息。
今日、joiとenoさんからJapan Blog Associationsなる組織を作るとの知らせ。ほんと、blogに乗り出すこれからの人に、オープンソースの流れが合流すれば、この国の重いメディアの壁を越えることも可能かも。mesh bloggerも走り始めた。いきなり皆、それぞれの個性を光らせている。
あと2週間もすれば、ホント、周りが全部、bloggerになってしまう。これはやはり革命かな??
Birthday (TKM (gourmet)blog):http://bloggers.ja.bz/takemura/archives/000007.html
enoとは飯野賢治のことである。
彼らは「Japan Blog Associations」を結成し日本におけるブログの代表になろうとした。
それに対し、反発をしたのが個人サイトの管理人達であった。
彼らは「先人達の手によってブログ草創期はすでに終わっている」「伊藤穣一とMESHは利権を握ろうとしている」
とし伊藤とMESHを非難した。これを受けて伊藤、武邑、明神は3名とも勉強不足だったとコメントした。
そして多くのサイトがこの騒動を取り上げ、結果、ブログという言葉が一気に知れ渡ることとなった。
なお、Japan Blog Associationsは成果を上げる事無く、2003年7月16日に解散した。
*:詳細はこちらを参照⇒「2002年のブログ騒動について今更振り返る」
資料:某ウェブログしょぼ発言 反応クリップ
(俺ニュース(ミラー))
◆テキストサイト界の動向
前年に始まったテキストサイトブームはまだ続いていた。但し、界隈を引っ張っていったサイト達に変化が訪れる。
先行者テキストで一世を風靡した『侍魂』は更新が稀になり、痛い系サイトの中心にいた『兄貴の館』は閉鎖。
そして多数発生した量産型VNIの親分である『ちゆ12歳』も更新頻度が下がっていった。
活力低下の兆しが見える中、目立ったのは騒動事であった。
迷惑行為をするテキストサイトが幾つも発生し、それらのサイトは「脳死」と呼ばれた。
そして脳死に関わる揉め事、所謂ネットバトルが多数発生した。代表的な揉め事としては「1・17事件」「魚類の乱」「植物の乱」「仁騒動」がある。
揉め事の発生はテキストサイト界の出来事をネタにしたテキストを書く「テキスト系テキストサイト」の発生にも繋がった。
また、VNI界では内容がテキストサイトというよりネットゲーム日記なサイトが大量発生。そのサイトには低質サイトが多かった為、その存在価値・是非が問われた。
2002年に開設したテキストサイトとして、AA職人、GIFアニメ職人、後に大相撲の動画に派手なエフェクト+効果音を付けた鬼無双シリーズを後に送り出した『バーチャルネットAA描き・チェき14歳』、 絵日記系サイトの代表格で「ぼく、オタリーマン。」として書籍化された『ダンシング☆カンパニヰ』、テキスト系テキストサイトの代表格『ダークマター』、 後に『オモコロ』を立ち上げるシモダテツヤの『ゴブリンと僕。』等が挙げられる。
2002年6月11日、『ろじっくぱらだいす』は個人間決済サービスを利用して個人サイトが閲覧者から報酬を得る方法を提案した。 「ろじぱら的Web投げ銭」と名付けられたこの提案は必ずしも受け入れられなかった。 後の世ではマネタイズが普通になっているが、この頃はそうではなかった。サイト閲覧者からだけではなく、サイト管理人達からも反発や懐疑的な意見があった。 個人サイト管理人は無料でコンテンツを提供するのが当たり前の時代。当時のウェブの空気が現れている点で重要な出来事である。(*10D)
*10D:詳細はこちらを参照⇒「『ろじっくぱらだいす』が提案した「Web投げ銭」とその反応」
■『バーチャルネットAA描き・チェき14歳』:http://check-it.org/14/
■『ダンシング☆カンパニヰ』:http://plaza26.mbn.or.jp/~mackerd/
■『ダークマター』:http://members.tripod.co.jp/watch_dark/
■『ゴブリンと僕。』:http://www.geocities.co.jp/Stylish-Modern/3433/
◆個人ニュースサイト界の動向
2002年1月5日に開設した『(・∀・)イイ・アクセス』はFlashニュースサイトであり、Flashニュースサイトの”御三家”の一角である。
ここに『ホタテプロダクツ』『かーずSP』『(・∀・)イイ・アクセス』のFlashニュースサイト御三家が揃った。
大きなアクセス数を稼いでいたこの三サイトは動画宣伝役としてFlash動画界と個人制作によるFlash動画ブームを支えていく。
2002年11月29日に開設した『ゴルゴ31』はアニメやゲームネタに加え漫画レビューを紹介するサイト。三大個人ニュースサイト”KKG”の一角である。
『ゴルゴ31』は漫画レビューを扱う独自性で後発でありながら最大手にまでのし上がった。同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に」を広めたニュースサイト。
他には、オカルト関連のニュースを扱う『X51.ORG』、取り上げるニュースの独自性が魅力な『駄文にゅうす』、津田大介の『音楽配信メモ』 、e-Sportsについて早くから扱っていた『Negitaku』等が挙げられる。
個人ニュースサイト界が大きくなると、【ニュースサイト(主に商業サイト)から情報を集める、子ニュースサイト】⇒【子ニュースサイトから情報を集める、孫ニュースサイト】と多層化した。
そして孫ニュースサイトが大きなアクセス数を持つようになってきた。
これは子ニュースサイトの立場からすると「孫ニュースサイトにネタを提供するためのサイト」に成り下がってしまってるともいえ、孫ニュースサイト=大手ゼネコン論として議論を巻き起こした。
■『(・∀・)イイ・アクセス』:http://www.iiaccess.net/
■『ゴルゴ31』:http://home1.catvmics.ne.jp/~golgo31/
■『X51.ORG』:http://x51.org/
■『駄文にゅうす』:http://ariel.s8.xrea.com/
■『音楽配信メモ』:http://homepage1.nifty.com/kraftwerk/
■『Negitaku』:https://www.negitaku.org/
◆ウェブアニメーションの動向
2002年は個人制作のFlash動画において飛躍の年であった。ムネオハウスやさいたまブームで存在感を発揮するFlash動画。
飛躍のきっかけは『2ちゃんねる』に「FLASH・動画掲示板」(FLA板)が出来た事だった。この掲示板に動画制作者と鑑賞者が集まり、更にFlashニュースサイト御三家も揃い、
ここにFlash動画界が形成された。
Flash動画は『2ちゃんねる』で発生するイベントにおいて最強の支援物資として持て囃された。
そして、この界隈から生まれた大イベントが「紅白FLASH合戦」である。
紅白FLASH合戦はFLASH・動画掲示板の「50レス目に出たネタでフラッシュ作れ」スレッドが発祥の企画で、動画制作者が紅白に分かれて勝負をするというもの。
この企画が34作品を集め成功を収めた事で、翌年から数多くのイベントが開催されるようになり、所謂「FLASH黄金時代」が始まった。
この年に活躍したFlash動画職人として、
軟骨、(Y)o\o(Y)、ナナシアター.swf、弱腰戦士マカー、NNSJ(後の たけはらみのる)、青池良輔、ヨガ鳥、森野あるじ、VON NANASHI、哭蔵、
モナ倉、シラネーヨ八木、gorua、まろやかさ、おけぐわ、スキマ産業、wosa等が挙げられる。またリーダーシップを発揮し紅白FLASH合戦を成功に導いたスタッフにFLASH50がいた。
彼女はFLA板の事実上リーダー且つ宣伝役として多大な貢献をし、FLA板の命運を握っていく。
■【CATMAN】(青池良輔)
■【ゾ1ド】(NNSJ)『あんびえん堂』
■【しぃのうた】(NNSJ)『あんびえん堂』
■【ひろみの絵日記】(NNSJ)『あんびえん堂』
■【トゥートゥートゥマシェリーマーシェーリー】
■【1000キタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!!!】(スキマ産業)『スキマ産業』
■【ある夕食の風景】(eden)『eden』
■『紅白FLASH合戦』:http://flashrw.fc2web.com
◆その他
2002年1月21日?:『警鐘~高山登久太郎ホームページ~』開設。暴力団の四代目会津小鉄会会長、高山登久太郎のサイト。月数回の頻度でコラムを書いていた。
暴力団の大物組長で早い時期からウェブに文章を書いていた二人の内の一人。尚、もう一人はオレンチオジサンこと、英組組長の英五郎(六代目山口組舎弟)。
2002年3月12日:『ABC(アメリカン・バカコメディ)振興会』開設
2002年6月1日:『MyNewsJapan』開設。企業からの資金に頼らない市民参加型インターネットメディア。
2002年9月30日:「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史ヽ(´ー`)人(´ー`)ノ」公開。『ばるぼらアンテナ』のばるぼらが作成した年表。
個人サイトが日本のウェブ社会・ウェブ文化(ネット文化)の多くに関わり、作り上げていった事を示す年表。
2002年11月5日:『又吉イエス非公式サイト』開設。衝撃的な選挙ポスターで有名になった又吉イエスに関する情報サイト。
■『警鐘~高山登久太郎ホームページ~』:http://www.keisho-takayama.info/
■『ABC(アメリカン・バカコメディ)振興会』:http://abcdane.net/
■『MyNewsJapan』:http://www.mynewsjapan.com/
■「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史ヽ(´ー`)人(´ー`)ノ」:http://blogdex.tripod.co.jp/encyclopedia/
■『又吉イエス非公式サイト』:http://yes.kazamidori.net/
2003年(平成15年)
FLASH黄金時代
▼主な出来事
『デイリーポータル Z』開始、 ブログサービスが始まる、 川崎祭り、 Winny2の登場とWinny利用者の逮捕、 丸紅ダイレクト事件、 テキストサイト界の動向、 個人ニュースサイト界の動向、 FLASH黄金時代の到来、 ブロゴスフィアの形成
◆『デイリーポータル Z』開始
2003年1月に開始した『デイリーポータル Z』はニフティが運営する面白記事サイト。 なお、Zのつかない『デイリーポータル』は2001年から存在。その後『Weekly Portal』になり、『デイリーポータル Z』になった。 編集長は1996年に『東京トイレマップ』と『Webやぎの目』を開設した林雄司。 商業サイトとは思えないネタで、ライターの個性が光る、唯一無二なサイト。 2017年以降、運営会社がニフティ⇒イッツ・コミュニケーションズ⇒東急メディア・コミュニケーションズと変わっていき、 2024年に林雄司がデイリーポータルZ株式会社を設立。独立を果たした。
■『デイリーポータル Z』:http://portal.nifty.com/
◆ブログサービスが始まる
2003年は商業のブログサービスが次々に開始した年であった。
昨年までに「さるさる日記」や「ヤプース!」といった、レンタル日記サービスは開始されていたが、それよりも機能が充実している。具体的にいえばコメントとトラックバックである。
2003年1月16日、『人力検索サイトはてな』は『はてなダイアリー』のベータ版をリリースした。
『はてなダイアリー』が他と違い秀逸だった点は、キーワードシステムと呼ばれるWeb用語集が実装されている事であった。
Web用語集はユーザーが用語とその解説を登録可能。登録された用語はキーワードとなり、ブログの文中にキーワードが存在すると、そのキーワードの解説ページへ自動でリンクされる。
3月13日、正式版へ移行した。
2003年11月5日に『livedoor Blog』、同月20日に『Seesaa』、12月2日『ココログ』がサービスを開始した。
商業のブログサービス開始はウェブに大きな変化をもたらした。 商業のブログサービスを使えばHTMLが解らなくても簡単にサイトを持て、かつ簡単に更新が出来た。
更には出先でも携帯電話からサイトの更新が出来るようになった。これにより芸能人や会社役員などの有名人がネットの世界に本格進出を始めた。
ブログと2004年から本格化していくSNSは、ウェブ社会を変えていった。ウェブとリアルの境が薄くなっていった。それはウェブ社会も人の身分・所属・財産・権力に縛られる世界に進んでいく事を意味したのである。
■『はてなダイアリー』:http://d.hatena.ne.jp/
■『livedoor Blog』:http://blog.livedoor.com/
■『Seesaa』:http://blog.seesaa.jp/
■『ココログ』:http://www.cocolog-nifty.com/
◆川崎祭り
2003年4月25日から始まったプロ野球オールスターゲームのファン投票で、かなりの額の年俸を貰いながら、殆ど登板をしていない川崎憲次郎(中日ドラゴンズ)を一位にして晒し者にしようという『2ちゃんねる』掲示板発の企画が勃発した。 これは「川崎祭り」と呼ばれた。2002年の田代祭りのようなもの。中間発表で一位になったが6月23日に川崎がオールスターゲーム辞退を発表した。最終的にも川崎が一位になった。
◆Winny2の登場とWinny利用者の逮捕
2003年4月27日、Winnyの新バージョン「Winny2」が登場した。Winnyに大規模BBS機能を追加したもの。
1491 名前:47. 投稿日:03/04/27 22:02 ID:gmIlQnKz
お待たせしました。Winny ver2.00.beta1 です。
Winny200beta1.zip 234,567 4de631b9e48726ccf464256c8162613c
現在のnyの稼動状況調査を兼ねて、ny1上で配布します。
・ファイル共有部分のバグ修正・仕様一部変更
・BBSはny1と互換性は無い
・GUIをフルリファイン
・BBSにクラスタの概念を導入
・ny1と同時起動は不可能。
まず、ファイル共有部分について、
BBSを新しくするに当たり、ファイル共有部分のキー操作部分を変更しました。
ny1と互換性はありますが、ファイルversionは5.1となります。
BBS処理を分離したため、ファイル共有部分のクエリー処理が多少高速化したはずです。
MXの次の次は何なんだ? part120:http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/download/1051358934/
2003年8月、Winnyのネットワーク経由で感染するコンピューターウイルスが現れた。「Antinny」と名付けられたこのウイルスの活動はWinnyのキャッシュを消去するだけであり、ダメージは少ない。
この後次々と凶悪な亜種が現れていく。
当時、高い匿名性があるとして人気となったWinnyであるが、実はBBS機能においては匿名性が低かった。
スレッド所有者に直接アクセスする仕様であるため、容易にスレッドの所有者のIPアドレスを特定できた。そして逮捕者がでることになる。
2003年11月27日、著作権侵害で愛媛県松山市の無職男性(19歳)と群馬県高崎市の自営業男性(41歳)が逮捕された。 WinnyBBS上で「これから放流します」と発言したのが命取りになった。
11月28日、47氏が家宅捜索を受けた。Winny公式サイトは「そろそろノートだけでもいいから返してもらえないと仕事に支障がでるのですがどんなもんなんでしょうか・・・・」の一文のみが表示されるようになった。
■「Winny2」(ソフトウェア)
◆丸紅ダイレクト事件
2003年11月2日8時、丸紅の通販サイト『丸紅ダイレクト』で販売しているNECのPC「VALUESTAR F VF500/7D」について、 本来198,000円と考えられる販売価格が、19,800円と設定されていた。これが『2ちゃんねる』で拡散され、一気に祭りとなった。
706 名前:名無しさん 投稿日:03/11/02 08:34
おまいら、NECのデスクトップが安いですよ。
値段の付け間違いだろうなぁ・・・。
707 名前:名無しさん 投稿日:03/11/02 09:17
安すぎ ワロタ
一桁間違えてるな
708 名前:名無しさん 投稿日:03/11/02 10:33
>>706
みんなでこれ買おうぜ!!祭りじゃん!!
前も液晶モニターの価格間違えで、祭りになったような、
あの時は結局売ってくれなかったらしいが、今度は・・・。
▼ギコの楽しいデスクトップPC購入相談▼3台目:http://pc3.2ch.net/test/read.cgi/pc/1063378627/
『丸紅ダイレクト』は同日10時に価格を訂正するも、既に1500件の注文が入っていた。 こういった場合は結局販売されない……と思いきや、『丸紅ダイレクト』は19,800円で販売することを決定。2ちゃんねらーを驚かせた。 この事件は「丸紅ダイレクト事件」と呼ばれた。
◆テキストサイト界の動向
テキストサイトブームは完全に終焉を迎えた。
2003年1月5日、『かまくら』の雪生が新たに開設したサイト『ばーちゃるねっとあいどるゆにっと テキッ娘。』はVNI界最後の大物である。
「ちゆや侍魂の更新頻度が落ちた今、廃れていくテキストサイト界にカンフル剤をうつ」とし、
コンセプトは「5人組のネットアイドルによる運営」。5人のイラストも絵師に描いてもらう徹底ぶり。
個人サイトを超えた、そのスケールの大きさには目を見張るものがあった。
然し、それだけに一人で更新を続ける困難さを閲覧者から指摘されていた。『ばーちゃるねっとあいどるゆにっと テキッ娘。』は雪生の就職を理由に3ヶ月で更新を停止した。
ブームは終焉を迎えたものの、界隈に活力はまだ残っており、2008年辺りまでは新規サイトがある程度発生してたし、イベントも開催された。
2003年に開設したテキストサイトとして、『テキッ娘。』の他には『バナナが黄色いわけ』(後の『ザイーガ』)等が挙げられる。
■『テキッ娘。』http://tekikko.com/
■『バナナが黄色いわけ』http://phyphy.zombie.jp/
◆個人ニュースサイト界の動向
この年の個人ニュースサイト界には衝撃的な出来事があった。『俺ニュース』が閉鎖を宣言したのである。
個人ニュースサイト界の全盛期に、孫ニュースサイトの最大手であり、他のサイトのお手本でもあった『俺ニュース』が閉鎖するという衝撃。
そして宣言通り2003年5月31日に閉鎖した。
2003年に開設した個人ニュースサイトとして、釣りタイトルと炎上商法で度々話題となった『秒刊SUNDAY』、荻上チキの『成城トランスカレッジ!』、他には『ねたミシュラン』『ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS』等が挙げられる。
■『秒刊SUNDAY』http://yukawanet.com/sunday/
■『成城トランスカレッジ!』http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/
■『俺ニュース』(閉鎖時):http://www13.xdsl.ne.jp/~techle/Rna/
◆FLASH黄金時代の到来
昨年末に行われた紅白FLASH合戦は成功に終わった。これによりFLASH・動画掲示板住民が主体のイベントが幾つも行われるようになっていく。
Flash職人により良質なFlash動画が次々と制作され、Flash界隈は大いに盛り上がり、ここに「FLASH黄金時代」が到来した。
紅白FLASH合戦の運営はオフラインイベントの開催を企画。2003年7月20日、「FLASH★BOMB」を開催。これも成功を収めた。
2003年4月15日、画像と動画の投稿サイト『pya!』が開設。ここには人気のFlash動画がアップロードされた。
10月はタモリ倶楽部の放送によって日本ブレイク工業ブームがウェブで起きたが、これを元ネタにしたFlash動画が制作され、人気を博した。
年末には第2回紅白FLASH合戦が行われた。Macromediaや著名職人が祝辞を寄せたオープニングは衝撃。次々と公開される良質Flash動画。Flash界はこれからも発展していく、そんな未来を感じさせるイベントだった。
この年に活躍したFlash動画職人として、512kb、塚原重義、AKIRA、ぴろぴと、未乃タイキ、みやかけお、丸山薫、O-toro、たけはらみのる、すなふえ、nae、ハチミリ、静かなる中条
等が挙げられる。
■【2ちゃんねる大王】(512kb)『512kb』
■【宿題は大変だワッショイ】(512kb)『512kb』
■【スーパーしぃルクちゃん】(512kb)『512kb』
■【甲鉄傳紀 -戦雲の高層都市-】(塚原重義)『弥栄堂』
■【アニメ2ちゃんねる】(AKIRA)『ヘッポコムービーズ』
■【終わらない鎮魂歌を歌おう 第壱話】(未乃タイキ)『偽与野区役所』
■【相田みつおの世界】(みやかけお)『ザ・ガーベージ・コレクション』
■【二二九】(丸山薫)『MARU PRODUCTION』
■【なつみSTEP!】(たけはらみのる)『あん堂』
■【日本ブレイク工業社歌】
◆ブロゴスフィア(ブログ界・ブログ圏)の形成
2002年に起きたブログ騒動、2003年の商業ブログサービス開始。いよいよ日本にもブログの波が押し寄せてきた。
2003年に開設した代表的なブログとして、はてなの代表である近藤淳也の『jkondoの日記』、
後に「ウェブ進化論」を著した梅田望夫の『梅田望夫・英語で読むITトレンド』、『高木浩光@茨城県つくば市の日記』、
『切込隊長BLOG ~俺様キングダム』、2005年の耐震強度偽装問題で話題になった『きっこの日記』、主に新聞社説ネタの『極東ブログ』、
後にブログ圏で大きな事件を起こす『絵文録ことのは』等が上げられる。
ブログの中でも特に影響が大きかったのは2003年10月26日に開設した『しょこたん☆にっき』と、2004年6月30日に開設した『眞鍋かをりのココだけの話』である。
積極的に更新していったこの2サイトにより、眞鍋かをりは「ブログの女王」、それより後で話題となった 中川翔子は「新ブログの女王」と呼ばれた。
特に『しょこたん☆にっき』は写真と一言コメントしかない記事を一日に何度も投稿していた。これは『Twitter』でユーザーが行う投稿方式と同じ。
『Twitter』がまだ無い時期に、ブログでツイートをしていたという意味でも『しょこたん☆にっき』は重要である。
2003年10月から年末にかけて、『Myblog japan』は「blog of the Yeah!2003」を開催した。今年最高のブログを決めるというもの。
Myblog japan は…… 「すでにblogを書いている人、これからblogを書きたい人、blogを知らない人、誰にとっても使いやすく役に立つサイト。」を目指して開設しました。 その趣旨の一環として今回「blog of the Yeah!」の開催に至りました。 内容が面白い!!デザインがいいね!スポーツの分野ではこのblogいいよ。という感じを、コンテスト形式にした[お祭り]です。 あまり固いことをするつもりはなく、お祭り騒ぎのように、bloggerの方々が、blogを知らなかった人が、審査員の方々が、 そして運営者である僕たちが、楽しめれば大枠の目的は達成だろうと思っております。 現在、大枠のスケジュールと概要しか決まっていません。 というのも、みなさまの協力なしでは盛り上がらない[お祭り]なので、 反対にみなさま次第で、いかような[お祭り]にもなると思っております。 素敵なお祭りにできたらいいな、という想いをこめて開催したいと思います。
主催者より(blog of the Yeah!2003):http://yeah.myblog.jp/info/naito
ベストブログとして『切込隊長BLOG』と『X51.ORG』が選ばれた。
他に部門賞として『小鳥(a little bird)』『ごこち』『鷽スポーツ新聞』『借力』『ARTIFACT』『食べたものを淡々と記録するよ』『梅田望夫・英語で読むITトレンド』『小ネタBlog~純情派』『音楽配信メモ』『古今東西製品情報』等が挙げられる。
元々のブログの定義は「通常一人で管理しており定期的に更新がある小規模なサイト」であった。これはサイトの運営方法を指しており、
この定義だからこそ日本では個人ニュースサイトと一部テキストサイトがそれに当たり、2002年のブログ騒動では「日本では先人達の手(我々の手)によってブログ草創期はすでに終わっている」という意見が成り立った。
また定義をコンテンツの内容から「URLとともに覚え書きや論評などを加え、記録する」としても結局それは個人ニュースサイトである。
然し、ブログが広まった後の日本では、ブログという言葉が持つイメージが少し違った。
「記事ごとにコメント欄とトラックバックが付いている」「ブログツールで作成されている。或いは商業のブログサービスを使って作られたサイト」
がブログというイメージが強く、ブログという言葉はコンテンツの内容よりもシステム面をイメージする言葉になった。(*11A)
*11A:例えば『かーずSP』『カトゆー家断絶』『(・∀・)イイ・アクセス』をブログと当時いってる人は殆どいなかったと記憶している。 多くの人にとってこれらはあくまで個人ニュースサイトなのである。逆に商業ブログサービスを使っていれば内容はどうあれブログと呼ばれていた。
■『jkondoの日記』:http://d.hatena.ne.jp/jkondo/
■『梅田望夫・英語で読むITトレンド』(『CNET Japan』で連載):http://japan.cnet.com/blog/umeda/
■『高木浩光@茨城県つくば市の日記』:http://d.hatena.ne.jp/HiromitsuTakagi/
■『切込隊長BLOG ~俺様キングダム』:http://kiri.jblog.org/
■『極東ブログ』:http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/
■『ウェブログ@ことのは 』:http://kotonoha.main.jp/
■『きっこの日記』:http://www3.diary.ne.jp/user/338790/
■『しょこたん☆にっき』:http://blog01.yapeus.com/users/strawberrytime/
1990年代に成立した日本のウェブ社会は商業サイト群と個人サイト群が両輪となり、形成されていった。商業サイトと個人サイトがある程度対等に渡り合えており、
大手個人サイトの管理人は世間的には無名でもウェブ社会では力を持つ存在。日本のウェブ社会とウェブ文化は企業だけではなく、個人によっても作られていった。
インターネットにより、人の身分・所属・財産・権力に関係なく、誰もが世界へ情報を発信し、受け取る事が出来る社会の実現。
それは理想論ではあるのだけど、日本では個人サイトという形である程度は進んでいった。
2003年から本格化したブログと2004年から本格化していくSNSはウェブ社会を変えていった。ウェブとリアルの境が薄くなっていった。
それはウェブ社会も人の身分・所属・財産・権力に縛られる世界になっていく事を意味したのである。